この咄嗟の「怒り」とどう向き合うか?

先日、自転車に乗っていたんです。

東京品川区は、さほど広くない通りをその自転車で愉快に走っていたら、見知らぬ若者に声をかけられたんですね。

どうやら私の自転車操作が気に食わなかったらしく注意をされました。

その際「すみません」と言って立ち去ろうとしたのですが、その者は走って私の自転車を追いかけてくるし、とにかくしつこい。

またその注意の仕方もひどくねちっこくて、なんとも癇に障る言いようでした。

私は急いでいたこともあり、そのせいでひどく苛立ってしまいまして、しまいにはその若者に「うるさい!黙れ!」と叫んでしまったんですね。

人以前の、仏教者としてあるまじき発言です。

ただその時は特に道路交通法を破っていたわけでもありません。そんなことを注意されるゆわれもないと自負しております。

私は昔からとにかく怒りっぽい性格です。そのせいでこれまで何度も痛い目に遭ってきました。本当にこの性格が嫌で、私の人生にとって最大の課題でもあります。

それに今は物騒な世の中ですから、そんな応酬をした暁にはさらに逆襲され、命を奪われるといった結果にもなりかねません。

このようなことはどんな些細なことでも、あってはならない状況だと言えます。

それにもしかしたらその時間帯は自転車は手で押して通る必要があったのかもしれません。となると私の注意不足です。

今回どこに非があったのか。その分析も大切なのでしょう。また人間社会一般でもそこが常に焦点です。

しかしそれは単なる後付け。私からすればどうでもいい話です。

それよりも私的にはこの咄嗟に怒ってしまう、このいきなりの事象の方が問題なのです。そして実は人間社会一般においても「ここ」が重要で、「ここ」の究明が大切なのだと思っています。

咄嗟に怒ってしまう。これさえなければ我々はもっと平穏に生きられるはずです。

この働き、この事象。もしそれがどうにかできるものだとして、またそれが自身の性格の問題なのだとしたら、きちんと向き合わなければいけないと改めて思わされました。

前回以下の記事を書きました。我ながらその内容には満足しています。

そこでは我々は仏なのだと。世界全体も仏なのだと。

だから日々を大切に、日々の行いを丁寧に、大切に。仏道者はこの世界に仏を作り出すのが仕事で「仏作仏行」。仏の功徳でいっぱいにすればもっと世界は良くなるはずだと。

そんなことを並べ立てていました。

にもかかわらず、このような結果になってしまった。ましてや愚言行為までしている。恥ずかしいですし、本当にあってはならないことだったと思っています。

相手を傷つけた。もしかしたらそれは仏に背く行為ではなかったのではないかと。私の願いと反した行いだったのかもしれないと。

それに今回私の運転の仕方がいずれでも、その若者にとっては不快と感じた、危険と感じたのは事実です。

それを注意した。注意してくれた。

そう思うとその若者の方が「仏作仏行」だったのかもしれないということです。

私はそれを無碍にした。彼の思いに蓋をした。あるいはその仏を壊してしまった。その仏に反発してしまった。

仏に仕えたい身として非常に悔しい思いをしました。「仏作仏行」などと、よく口にできたものだと。口からでまかせに過ぎないじゃないかと。

まだまだ修行が足りないと。私はまだ未熟で、私がこのサイトで並び立てている内容は机上の空論でしかないと、そのように思われたのです。

怒りが咄嗟に沸き立つ。これは私の人生で最も重要な課題です。このような年にして、いまだにこんなことをしている。やばいです。でも本当にどうすることもできないのです。

どうしたら良いのでしょう。

これがもし田舎の生活だったら状況は違っていたのでしょうか?もっとお金があって余裕のある生活を送っていたら状況は違っていたのでしょうか?その時、急いでいなければ違ったのでしょうか?それは境遇によって封ぜらるるものなのでしょうか?なくなる事象なのでしょうか?

もしそうだとしたら、私はそのような境遇に常にいたいです。そのための努力をしたいです。するべきです。

あるいはその努力をするだけでいいわけです。

それでこの怒りは解消できるはずです。境遇されよければ怒りはなくなということなのですから。

しかし本当にそうなのでしょうか?本当に境遇の問題なのでしょうか?要するに常におおらかな気持ちでいればいいのでしょうか?そのための努力をすればいいだけなのでしょうか?

それにこのようなことはいつどこで起こるかわかりません。今回の経験で今後はいくらか予防はできると言っても、今度は田舎道の車の運転中にそのようなことが起こるかもしれません。

よくニュースなどで見ず知らずのドライバー同士が口論している動画を見ますが、決してそれは軽く捉えてはいけないなって。

あのような時は怒りで我を忘れ、初めて遭った人、もう二度と会わない人、そのような人に対しても殺意を覚える。

殺人や犯罪というのもこのようにして起こるのでしょう。

これがいつ自分の身にも振り起こることかもしれないと。

果たしてこの怒りに「予防」などできるのでしょうか?怖くて仕方がありません。

怒りとはなんでしょうか。それは人間固有の概念でしょうか。またその中でも特定の人だけに起こる事象なのでしょうか。

あるいはどうすることもできないもの、事象。程度の差こそあれ、誰しもが携えているもの、言ってしまえば生命の実物。仏の、大自然の働きなのでしょうか。

「おーい!」と呼ばれ咄嗟に返事をしてしまう。そこに禅の働き、仏の働きがあると昔の祖師は言われました。

今回のことがそれと同じことなのかどうか私にはわかりません。「おい!」といきなり言われたところまでは少なくとも一緒です。

仮にもしそうだとすれば、翻ってあまり悔やむようなことでもないということになります。それは仏の働きで、どうすることもできないものだったからです。

しかしそうなると、殺人をはじめとする犯罪がまかり通る世の中になります。仏の働きなのだからしょうがないじゃないか!と、この世界には自分なんてものはない、これは自分がやった事じゃないんだ!全ては仏の仕業なんだ!とそのようなことがまかり通ってしまうことになります。

決してそうではないはずです。そうであってはいけないはずです。

この怒りとどう向き合うか。人間にとってのこの咄嗟の感情とは何か。その咄嗟の出来事とどう向き合えばいいのか?この怒りの正体とは?一体どこからやってくるものなのか?それは人間が果たして太刀打ちできるものなのか?封ぜることのできることなのか?

ここをもっと参究しなければなりません。いきなり怒ってしまう。これが一体どういうことなのか?ということを。そして正しい対処の方法を学ばなければいけませんね。

これは「悟り」や「真実」、あるいは「仏作仏行」などと言う以前に、向き合うべき大切な問題です。

あの時のことを思うと、今でも苦い思いをするのですが、しかし実はこの話には続きがあるんです。

同じく先日、自転車を走っていた時のことです。(上記案件から4.5日後のことです)

狭い路地の細い道を左折しようとしたとき、そこで老夫婦と鉢合わせたんですね。私もそれなりにスピードが出ていたものですから、その老夫婦はびっくりされてですね、大変驚かせてしまったわけです。

私はその時に咄嗟に「ごめんなさい」っていう言葉がでたんです。そして哀れみの思いが突然降ってきたんですね。

これは今回の感情とは真逆に位置する感情ですよね。一方は「怒り」、もう一方は「哀れみ」。

しかしどちらも同じようにどうすることもできなかった「突然の事象」だったのです。

その怒りと同じく、この哀れみの思いも防ぎようがなかった。「ごめんなさい」という言葉も防ぎようもなかったわけです。

このようなこともあって、今回の話がより複雑な問題だということがわかってきたわけですが、怒りも、哀れみも、真逆に位置しているものだとしても、それらは同じ感情だということです。

広い目で見ればそれは「命の正体」としてどちらも同じものだということではないでしょうか?

またそれはその時、その場、その方々があって、その因縁があって、他によって起こされるもの。制御できないもの。

つまりその「感情」とは防ぎようもないこと、まるでそれは呼吸や排泄と同じ。そこには命の正体がかならず現れているということ。どうすることもできないもの。

主人の気づかないところで常に現れる機会を伺っており、ふとした機会に突然出現してしまうもの。

そのような正体不明の生物。それでも確かな命の正体なのだと。

実際にそのような感情の「種」は他の動物たちにもあるものだと聞いたことがあります。

チンパンジーやゴリラなどの猿人類も、よく同じように怒ったりするようです。

しかし彼らは「言葉」を持たない。「言葉」を持っていない彼らはそこから先を構築できないのです。そもそもそれがなんなのかも彼らはわかっておらず、ただ生命の実物に、生命の実物されているだけです。

要するに何があっても生命の実物を生命の実物のままに留めておくことができているわけです。

一方で「言葉」を持つ我々はこの「言葉」を元に、コミュニケーションをとり、そこから何かを構築していくことができます。

それが誤りだということです。

今回私がお伝えしてきた事象。突然の怒りや、哀れみ。これはいずれも仏の命だった、今はそのように捉えられるようになりました。それはどうすることもできない問題だったのだということです。

この怒りも、どうすることもできない命の正体として、命のあり方として向き合うしかないということです。

なので問題は感情に蓋をしようとすることではなく、その後の感情の付き合いかただということです。

今回そこの部分がやはりいけなかったということです。

暴言を吐いた。言葉で持って構築してしまった。感情に手をつけてしまった。それは生命の実物に反した。仏に反したということです。

そこから何かを構築できるのが我々の利点ですが、同時にここを抑えていく。手をつけない。そういったことも我々言葉を持った人間にとっては常に課せられている義務なのではないでしょうか。

今回はそのようなことを教わった、非常に良い経験となりました。

調べてみたら、怒った後5秒間待ってみるとか、深呼吸をしてみるとか、アンガーマネジメントという部類で広くさまざまに紹介されておりました。

ただできるものなら、怒りそのものと無縁でいたいですね。この世界から消せるものなら消したいです。本当に心からそう思います。

怒りやすい人と、そうでない人の差も確実にあるように思います。

どうすればもっとおおらかな人間になれるのでしょうか?怒らなくなる秘訣というのがあるのでしょうか?

みなさんはいつもどのようにこの怒りと向き合っておりますか?

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