最近は堅っ苦しい記事ばかりでしたから、たまにはこうした「厨二病感」を匂わせる記事も悪くはないのではないでしょうか。
今私は「植物学」の本を読んでいます。そこで色々なことを学ばせてもらっています。
実はそれで新しい気づきがあったんです。今回はそのことについてお伝えします。
チューリップの花は同じ土から
植物は本当に不思議で、我々が思っている以上に逞しい力を持っています。
例えば風情があって、お寺にもお似合いの「アサガオ」の花。
夏の、しかも朝にしか花を咲かせないことで知られるこの「アサガオ」ですが、他の花と違い、前の日の「日没」からの光加減に大きく影響を受けると言われております。
そこでの絶妙な光のバランスと気候条件によって、朝に咲きほこり、そしてまた夜になるとその花を閉じる。
そうした生き方をしております。そして毎年同じようにその過程をなしている。
少しでもそのバランスが崩れれば、あのような咲き方にはならないと言います。
なぜそんなことができるのか、とても不思議です。
また同じく「チューリップ」でいえば、同じ土と気候の条件であるにもかかわらず、あのように赤、黄、青と明確に色分けされながら咲き誇るわけです。

実際には土壌pH(土壌酸度)や、紫外線量、気温で花の色を変えているみたいですが、それにしても不思議です。
昔の人はそのようなことは露と知らないので、本当に驚いたことでしょう。
「この世界は実に不思議だ、本当に楽しい世界だ。この世界にはきっと不思議な魔法のような力がある。このような世界に生まれて来れて本当によかった。きっと仏様のお力なんだな。」
そのように思っていた人も中にはいたはずです。純粋というか、今とは別の豊かさが人にはあったはずです。
もちろん現代も、文明や化学技術が進み、あらゆることに対し的確な説明がなされ、そこで適切にアプローチできるようになったおかげで、より建設的に、また効率的に生きられるようになりました。
そこにも紛れもない「豊かさ」があるわけです。
しかし確かにできることは増えたけれども、どこか虚しい感じがいたします。
今の人は「な〜んだ、そんなことは簡単な問題で、土壌pH(土壌酸度)や、紫外線量、気温(温度)が関係しているんだよ」とすぐに高をくくってしまう。
また昔は不治の病で知られていた「がん」に関しても重く捉えていない人も今は多くなっていると言います。
それはどうせ治るから問題ないと。もはや不治の病でもなんでもないと。
このようにして現代はできることも増えたし、寿命も長くなりました。しかし同時に大切なものを無くしてしまったのです。
しかもそれはとても大切なことです。かけがえの無い我々にとっての「生きがい」のようなものです。
まもなく「空を飛ぶ自動車」が世に出回ると言います。アメリカでは実際にそのような運用が試験的に始まっておるようです。
人が簡単に空を飛ぶような時代になるのです。
昔からすればとても考えられないような出来事です。このことにどれだけ人は魅せられたことでしょう。そのような夢が多くの人を生かし、こうして今の時代を紡いできたのです。

しかしそのようなことも次第に定着して「当たり前のこと」となっていくはずです。
そしたら次は何を求めたらいいのでしょう。どんなことに我々はワクワクするのでしょう。
残念ながらもうそういうものとは出会えないのではないでしょうか。もう心からワクワクするようなこととは出会えないかもしれない。
事実、あなたの「夢」は何ですか?あなたが今ワクワクすることとはなんでしょう?ありますか?
ここは「魔法」の世界、魔法の力で成り立っている
そこで今一度思いだしてみましょう。
チューリップがなぜこうしてさまざまな色をなしながら咲き誇るのか、その事実を考えてみるのです。
つまり今生きているこの状況、今置かれている状況を考えるのです。
「土壌pH(土壌酸度)や、紫外線量、気温の関係だ」といっても、それでなぜ色を変えるのか、なぜあのような綺麗な花を実際に咲かせることができるのか、ということです。
あるいは今こうしていてもそうだし、寝ている間であっても平然と呼吸ができるのはなぜでしょう。
「脳の呼吸中枢(延髄)が自動的に呼吸を調節しているためである。体内の酸素や二酸化炭素の濃度をセンサーで感知し、脳がその情報に基づいて呼吸筋に指令を送ることで、基本的な生命活動であるガス交換が維持されているからだ」
このようなことが頭ではわかっていても、それを毎日、毎秒、やってのける。指示もせず簡単にやってのける。これがどれだけすごいのかということです。
まさに「魔法」です。
これは人間が決して忘れてはならないとても大切なことです。またいつの世も、もっとも大切な我々の「原動力」です。あるいは「真理」です。
我々は「理論」や「理屈」では決して解明できない「魔法の世界の住人」だということです。
文明や、化学、そのような発展は確かに素晴らしい物です。
しかしそれらはこのような魔法に対しての人間の「後付け」の上で成り立っているものだということです。
我々が本来もっと着目しなければいけないことはその根本である「魔法」です。
例えばチューリップや、桜の植物。あるいは我々の呼吸や、目に入るもの、耳で聞くもの、そもそも見たり、聞いたりしている日常。足を組めば痛くなる。
こうしたことです。
あるいは「うちわ」で仰ぐと風が起こりますが、なぜ風が起きるのでしょうか。「火打石」でカチッ!カチッ!とやると火がつくのはなぜでしょう。全くわかりません。仮に「火打金から剥がれた小さな鉄の欠片が空気と急激に反応して燃えるため」だということがわかったといっても、なぜそれで火がつくのかということです。そもそもなぜ温度があるのかということです。そしてなぜ温度が上がると火がつきはじめるのかということです。
結局はわからない、決して解析できないものが大元のわけです。
まさに「風の魔法」ですね。「火の魔法」です。
「そんなの当たり前のことだ!うちわで仰ぐと風が起こるからだ!」と、我々が普段自信満々にいっているのはつまりこれなんです。笑い話ですよね。我々の説明は「なんの説明にもなっていない」ということです。
このような神秘の力があって、我々はこのような文明を築くことができたわけです。
これらは人間では決して生み出すことができない、人間とは一切関わりのないところで蠢いているまさに「魔法」のような存在であるということです。
我々にとっての最大のロマンのわけです。
つまらないことはやめてしまいましょう。そんなことにかけがえのない時間を使うのはやめにしましょう。せっかくこのような世界に生まれたのですから、もっと「魔法」を「薬」を「魔法」を追い求めるのです。
親しむのです。
我々の文明というのはいわば「薬」に対しての「効能書き」のようなものだということです。
「効能書き」を書くのは、今ちょうど「AI」が出てきたのだから、彼らに任せていればいいのです。何も恐れる必要はないんです。彼らには「効能書き」が書けても「薬」を作ることなど決してできないわけですから。
一方の我々はというと、「薬」いっぱいのわけです。この足も、呼吸も、消化も全てが「薬」そのもののわけです。「魔法」そのもののわけです。
このような世界をもっと楽しみましょうよ。せっかくこうした魔法の恩恵をいただいたのだから、もっとその「魔法」を使ったり、眺めたりしましょうよ。
我々の使命は魔法(仏)に生き、それを引き継ぐこと
我々が普段生きるのに使っているこの体、あるいは置かれた環境というのはある意味「魔法」です。
それらは解析不能で、人間には決して手の届かないところに常にあるものだからです。
科学技術の発展で、あたかもそのような現象を解析、手中に収めたような気がしている我々ですが、実際には関わりすら持てていないわけです。何も解明できていないものが常にそこにあり、その差を縮めることは一生できないということです。
今はそのことがまるで見えていない、ないがしろに、見失っているのです。
常にそのような「魔法」が展開しているんです。この世界においては。
常に我々にはどうすることもできない、手のとどない物がそこには横たわっているのです。
そのようなものが根本にあって、しかもそれが我々の生命の「実物」のわけですから、我々はもっとそこをみるべきなのです。それを支えにするべきなのです。そこに捧げる生き方をするべきなのです。
そして「魔法使いの弟子」よろしく、楽しみながら、感謝しながら、その魔法のことを次世代に引き継いでいくのです。

どうしたらいいかって?私の場合は「坐禅」をします。
まさに「魔法」にどっぷり浸かっている瞬間だからです。
あるいは坐禅が苦手であれば、明日にでもアサガオやチューリップを見にいってみたらどうでしょうか。
何もこのことを中心に生きたり、昔のように生きたり、あえて貧しく生きろと言っているのではありません。
我々の背後にはこうした偉大なものがあって、常にそのようなものに囲まれている。ここは魔法の世界ならぬ「仏の世界」なのだと。
常にこの「仏」から漏れることがないのだと。
そしてこれからも、自分が死んでからも、そうあり続けるということを少しでも意識してほしいのです。
そして概念めぐりの、理屈だらけの、数字ばかりの息苦しい生き方は程々にして、こうして生を受けたことに感謝してほしいのです。
事実として、アサガオがさく、チューリップが咲く。足が痛くなる。そこに説明などありません。解明などできません。
この世界は本当に不思議です。すごい力ばかりです。全てが魔法なのです。
あるいはこのようなことがあるから、ここは正式に「仏の世界」と呼ばれるのかもしれません。
いずれにせよ、もっと自分を、日常を大切にしていきたいですね。
改めてこの世界での一挙手一投足、そこに一体どういう「意味」があるのかということを考え直してみたいと思うこの頃です。
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