仏とは「乾屎橛(くそかきべら)」だ。非常に汚いものだ。

仙厓和尚は「屁なりとて、あだなるものと思うなよ、ブッという字は仏なりけり」と言われました。

これは笑い話でしょうか?

しかし同じように、とある修行僧が一休さんに「どうしたら仏になれますか?」と聞くと、尻をまくって大尻を出して、「仏はここで鳴っている」と言いました。

あるいはかつてあった、同じく弟子と師匠の問答の中で「仏とはどういうものですか?」という弟子の質問に対し、師匠が「乾屎橛(くそかきべら)」だと言われたものがあります。

仏とは「乾いた糞ふき棒」であると。

仏は惚れ惚れとして、美しく、つい拝みたくなるような存在だと思われがちですが、このお三方にしてみれば、決してそのようなものではないというわけです。

とても汚いものだと。「屁」ですらも本当に仏なのだと。真剣に言われているわけです。

我々は「綺麗」と「汚い」、「金持ち」や「貧乏」、あるいは「美人」と「不細工」といふうに相対的に物事を見て、そして相対的に物事を判断しております。

しかしそれらはもう片方の存在によって、存在させられているわけではありません。

またそれら一つ一つは、その場でその場で、決して誰も変わることのできない命を営まれているわけです。

この世界にあるものは全てこうした相対的な存在ではなく、絶対的な存在であるわけですね。

そして触れるとわかりますが、実際に、今こうして目の前に存在しているわけです。

有情のもの、非情のもの、どのような存在であっても全てがこの世界の「正体」です。

その世界とはどういうものかというと、前回こちらの記事でもお伝えしたように「仏の世界」のわけです。

「乾屎橛(くそかきべら)」、あるいは屁、あるいは造花。

そのようなまるで仏とは相反するような代物でも、ここではきちんと真実をなしている。絶対的な存在を保ち、風化していく。この世界で真実を、正体をなしており、つまり仏なのです。

要するにこの世にあるもの、この世の「事実」。それは全て仏です。仏法です。

他方、全てを覆い尽くすこの世界、仏の包容力は偉大です。

我々が死しても、仏は見捨てることなく、そばにいてくれます。

我々はただ毎日、仏様に感謝して生きていけばいいんです。

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