禅にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は第⑥弾といたしまして、「托鉢(たくはつ)」についてをお送りいたします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
托鉢とは?
托鉢とは修行僧が、自身の最低限の糧を得るために「食糧」や「浄財」を集める事をいいます。
あなたも一度くらいは托鉢をしている修行僧の姿をテレビや実際の街角でご覧になったことはあるのではないでしょうか?
例えばタイなどでは本当に沢山のお坊さん方が、この「托鉢」と共にしながら日々の修行生活を歩まれているし、日本国内でもこの托鉢僧が駅のロータリーにいらっしゃったり、地下鉄の入り口にいらっしゃったりして、街角で見かける事がしばしばあります。
ただ普段あまり見かけないだけに、親しみが少ない若い方からすればこの「托鉢」は一見、寄附や募金活動のように思われますよね?
どのような目的があって行われているのだろう?と疑問に思われるはずです。
それではこうした「托鉢」は何のために行われているのでしょうか?
結論から言って、この「托鉢」は、修行僧、信者、両者にとって大切な仏道修行の一環なのです。
また修行僧の方から信者の方に「浄財」や「布施」をお願いしたりせがんだりすることもありませんし、また「浄財」や「布施」をしてくださった信者の方にお礼を言う事もありません。
どういうことか、以下で詳しく見ていきましょう。
托鉢の目的
「托鉢」は前述したように、修行僧が自身の最低限の糧を得るために「食糧」や「浄財」を集めることを目的としております。
いわば、修行僧が生き抜くために必要な修行なのです。
タイなどでは今でも修行僧が生き抜くための主な手段としてこの「托鉢」が用いられています。
ただ「托鉢」の目的はそれだけではありません。
というのも、信者や布施をしてくださった方に功徳を積ませる意味もあるからです。
つまり信者の方に自分の財産や、金品、持ち物をお布施していただくということは、信者のいわゆる執着を断ってもらうことにもつながるんですね。
ですから信者の方からしても托鉢僧に布施をすることは、己の執着を断ち切る修行にもなり、功徳を積むことにつながるのです。
よって布施のことを「喜捨」すると言うのもそのためなのです。
この「托鉢」を通して「喜んで捨てること」をしていただくのです。
ですから托鉢僧が、駅のロータリーや街角など人目の多くつく場所でこの托鉢を行っているのは、信者の方が気付きやすいようにという思いからでなのです。
よって托鉢僧の方から信者のお家の扉をあけるようなことは決してありません。
また一般に言われているお布施とは「財施」のことであり、お坊さんの誦経や法話という「法施」に対する気持ちのありったけを金銭などの財物によって表現する。
したがってそれはあくまでも「志」であり、「志」に意味があり、我々僧侶もそのありがたさをいただいています。例えば一千円という額も、金額で言えば一千円ですが、貧しくてその日の暮らしにも困っているような人からの布施なら、それは全財産を傾けてもらったほどの重みがあるわけです。
なので喜捨する側においてもお坊さんにお布施をすること。これも立派な仏道修行です。個人の持ち物を捨てる。悩める個人を本来の世界へ誘うのが坐禅や托鉢であり、それを実際に行ったり、行わせるのもお坊さんの仕事でもあります。
お金は概念で、そのことに気づいてほしいというのがこの托鉢なのです。この世に個人の持ち物など何もなく、お金は単なる概念だから、そんなものに囚われてくれるなよ。
そう気づかせてくれるわけです。
托鉢の経緯
古代インド仏教、及び原始仏教では、非常に厳しい仏道修行が繰り広げられておりました。
そんな中、出家者は三衣一鉢(大・上・内の三枚の衣と、鉢1つ)の最低限の生活必需品しか所有を許されていなかったんですね。
まさに乞食修行です。
ただそれも仏にお仕えする僧侶、仏に一番近しい存在であるがゆえの避けられないならわしだったのです。
さらに殺生戒が重んじられていた為、害虫捕殺が避けられない畑仕事は行えなかったんですね。
しかしそんな状況におかれた修行僧であっても、何かを食べなければ生きていけないし、何かを食べなければ肝心な仏道修行も行えません。
なので、僧侶が生存するための最低限の食料は、「托鉢」によって外部の信者から調達する以外なかったのです。
それが「托鉢」の始まりです。
また当時、山地や森林で修行しており他との関りが一切ない出家者と、町村で生活している信者との間に密接な交流関係をもたらしたのもこの「托鉢」だったといわれております。
お釈迦様の時代からこの「托鉢」は行われていたと言われており、午前中に托鉢に出て、その日、食べる分だけを頂くというということがならわしで、そこで得た「食糧」や「浄財」を蓄える事はしませんでした。
托鉢のいわれ
さて、この「托鉢」という語は中国宋(そう)時代から用いられるようになったと言われております。
サンスクリット語でこの「托鉢」のことを「ピンダパータ」といいます。
日本へもこの「托鉢」は中国から仏教の伝来と共に伝わりました。
この「托鉢」ですが、「手(托)」に「鉢」をもって行います。
その際、禅宗修行において「托鉢」の「鉢」に用いられるのは、食事をいただく「応量器」と呼ばれるものです。
その「応量器」ですが、仏様の「命」と同様に大切に扱わなければならず、普段の修行生活でぞんざいに扱う事は決して許されません。
例えば、地においたりすることは言語道断で、修行僧がこの「応量器」を使って食事を頂く際も「頭」と同じ高さ、目よりも高い位置で食事をいただくよう厳しく指導されます。
その何よりも尊い「応量器」を用いて行う「托鉢」のわけなので、「頭陀行」と呼ばれたりもします。
或いはその他にもこの「托鉢」は、「乞食(こつじき)」や、「行乞」、「鉢開き」などとも呼ばれます。
特に中国や日本の禅宗によって行われるものですが、禅宗に限らず他の宗派でも行われる大切な修行です。
修行僧が一列に並び、集団で歩きながら行う「連鉢」。
個別でその場所に留まりながら行ったりする「軒鉢」などがあります。
永平寺の托鉢
福井県にある「永平寺」でも修行僧によるこの「托鉢」が毎年欠かさず行われております。
そしてそれは修行僧が「食糧」や「浄財」を集める事を目的としているわけではなく、信者の方に徳を積んでもらうことを目的としております。
また福井県の門前の方々からすればこの年に何度かしかない「托鉢」は、唯一永平寺の修行僧との交流をもてる機会ですのでこの「托鉢」を待ち望んでいる信者の方も多くいます。
集まった「浄財」は社会福祉事業支援に寄附されます。
コメント