道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は第⑫弾といたしまして、「潙山警策(いさんきょうさく)」についてをお送りいたします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
潙山警策とは?
潙山警策(いさんきょうさく)とは、「潙仰宗(いぎょうしゅう)」の祖である、潙山霊祐(いさんれいゆう771-853)禅師の「著物」です。
中国禅宗の五家七宗の一つ。中国禅宗の巨人、六祖慧能禅師の法系である百丈懐海禅師のその弟子、潙山霊祐禅師とその門弟仰山慧寂禅師によって設立されたものです。
また「四十二章経」、「仏遺教経」、そしてこの「潙山警策」と、「仏祖三経」の1つとして数えらているものです。
そもそも「警策」とは、「坐禅中」、お坊さんにバチーンと「木の棒」で背中を叩かれるものですね。
あなたも何度かそういったシーンをご覧になったことがあるかと思いますが、「坐禅」といえばこの「警策」というイメージをもつ人も多いのではないでしょうか?
さて、この「警策」ですが元々は、「馬に鞭をうって走らせること」に由来した言葉です。
そしてこの「潙山警策」ですが、主に潙山霊祐禅師がしるした「語録」なんですね。
当時の禅門の人々が「坐禅中」に居眠りをするなど、次第に修行を怠るようになってきたことから、菩提心をよびおこすために潙山禅師がしるしたといわれております。
その後、多くの禅の指導者たちにこの「潙山警策」は指南書として用いられるようになりますが、日本においては白隠禅師など臨済宗の祖師方が、修行の手本として携えたものだと言われております。
潙山霊祐禅師とは?
そんな「潙山警策」をしるされた潙山霊祐禅師ですが、どういった人物だったのでしょうか?
潙山霊祐禅師(771年ー853年)は、福州(現在の福建省)出身の唐代きっての禅者です。
百丈懐海禅師の法をつがれ、湖南省の潙山という場所に「同慶寺」というお寺を建てて、約40年間ご活躍をされました。
潙山霊祐禅師の弟子には、さきほど簡単にご紹介した仰山慧寂禅師をはじめ、香厳禅師や、霊雲禅師などがおります。
特にその中でも、潙山霊祐禅師と香厳智閑禅師との間で行われた「香厳撃竹大悟」という公案はあまりにも有名で、現在でも多くの禅者によって参究がなされております。
道元禅師も、正法眼蔵三百則の中でこの「香厳撃竹大悟」の公案を取り上げられております。
また当ブログ「禅の旅」でも過去にこの「香厳撃竹大悟」について取り扱ったことがありますが、非常に多くの方々に読まれており、その関心度の高さがうかがえます。
その際の記事というのが以下の2つです。
そんな現代にも影響を及ぼし、道元禅師にも影響を及ぼされた「禅指導」を当時この潙山霊祐禅師はされたんですね。
非常に力のある、唐代きっての禅者であったことが窺い知れるわけです。
コメント