一日作さざれば一日食はずとは?

一日作さざれば一日食らわず

道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。

今回は第⑬弾といたしまして、「一日作(な)さざれば一日食はず」についてをお送りいたします。

筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

目次

一日作さざれば一日食はずとは?

一日作さざれば一日食はずとは?

正式には「一日不作一日不食」と書き、「いちじつなさざればいちじつくらはず」と読みます。

これは「百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師」というかたの言葉だとされております。

昔、百丈懐海禅師(ひゃくじょうえかい)という方がおりました。

この百丈禅師は、749年に中国でお生まれになって、生涯95歳まで生きたと言われている中国、唐時代の有名な禅僧です。

そして「百丈清規」という「禅僧堂における規則」を定め、自給自足の体制を確立されたことでも有名なお方です。

この一日作(な)さざれば一日食はずは、その百丈懐海禅師のお言葉であるとされるのです。

一日作さざれば一日食はずの意味とは?

それではこの一日作(な)さざれば一日食はずとは一体どのような意味でしょうか?

意味と致しましては「日々の行いが、そのまま仏法の修行であるから、一日の中で仏法にかなった行いがないときはご飯は食べない」というものになります。

「全ては仏法の為の命であり、仏法に生かされた日々であるから、その仏法にかなった働きを一日も忘れずに行わなければならない」ということなんですね。

これはよくよく言われる「働かざる者食うべからず」という意味合いにも少し似ておりますね。

確かにいつの時代であっても人間にはさぼり癖がありますから、自戒の意味としてもこのような言葉がたびたび聞かれるわけです。

しかしそうはいっても「働きたくない」と思うのが、人間の常です。

なんとかして楽したい。

なんとか一儲けして楽に余生を暮らしたい。

そのように思うのが人間ですし、そういった願望は誰しもにあるはずです。

それでもどんな人間でもこの「仏様の命」をいただいて毎日生活できているわけです。

どんなお偉い方であっても、どんなお年寄りの方であっても、毎日このように呼吸ができたり、お腹がへったりするのはすべて仏様のおかげ、仏法のおかげ。

なのでそのお返しとして、仏様にご奉仕する必要が誰しもあるんですね。

だから仏様のために働かなくてはならないのです。

そのような思いで百丈懐海禅師はこの「一日作(な)さざれば一日食はず」という言葉を残されたのだと推測します。

百丈懐海禅師は師匠の馬祖道一(ばそどういつ)禅師の弟子となってから師匠がお亡くなりになるまで、一日も「行持(仏法にかなったおこない)」をおこたることはなかったといいます。

そして年老いてからも若い修行者とともに、普請や農作業などの作務を毎日行っていたんですね。

そんな百丈懐海禅師の姿をみて、若い弟子たちはある日、禅師が使う農作業の道具を隠してしまうんですね。

もちろん禅師の、身体を気遣ってのことだったのでしょう。

するとその日、百丈懐海禅師は一日中食事をとらなかったといいます。

そのときにおっしゃったのがこの「一日作(な)さざれば一日食はず」という言葉だったんですね。

そのくらい毎日、仏法のために身をささげたお方だったのです。

しかしこの百丈懐海禅師がされたことは、至極まっとうなことなのかもしれませんね。

厳しい言い方になってしまいますが、年齢など関係ない。

どんな人間でも、仏様にご奉仕することを一日でも怠ったならば食う資格はない。

それが真実のように思います。

道元禅師も『正法眼蔵』、『行持の巻』でこの百丈懐海禅師の故事を引用し、この百丈懐海禅師の仏道にかける思いを称賛されております。

一日作さざれば一日食らわず

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