道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は「海印三昧(かいいんざんまい)」についてお送りいたします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
海印三昧とは?
「海印三昧(かいいんざんまい)」とは、サンスクリット語で「サーガラ・ムドラー・サマーディ」の訳で、大海の風がおさまって波が静かな時に天地のありとあらゆるものがそこに映し出されているように、煩悩の波風のない仏陀のさとりの心の中には一切の存在が真実なものとして現成しているという意味です。
ようするにこの「海印三昧」とは仏教用語で、精神の境地をあらわした言葉なんですね。
またこの「海印三昧」は『華厳経』の中で説かれているもので、仏陀がこの『華厳経』を説いた時に入ったとされる三昧の境地の名前だとも言われているんですね。
この「海印三昧」のことを「禅定(ぜんじょう)」と言ったりもします。
海印三昧と道元禅師
またこの「海印三昧」ですが道元禅師ともゆかりのある言葉で、道元禅師がおしるしになった『正法眼蔵』の第13巻のタイトルにもなっております。
この『海印三昧の巻』は、仁治3年(1242年)に興聖寺にて説かれたもので、弟子の懐奘禅師が書写されたものです。
道元禅師はその中で、
諸仏諸祖はかならず海印三昧を体験している。この海印三昧はただ静寂であるばかりでなく、真実の教えを説く時があり、体験の時があり、修行の時があり、そこには決まりが無い。その働きは自由自在である。
とお説きになっております。
つまり道元禅師が言うにはこの「海印三昧」とは、生死の苦海に沈んでいる衆生をすくいだそうとする願行も含め、すべてがこの「海印三昧」であるというんですね。
「海印三昧」の意義について大切に説かれたタイトルとなっております。
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