道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は「海印三昧(かいいんざんまい)」についてお送りいたします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
目次
海印三昧とは?
「海印三昧(かいいんざんまい)」は、サンスクリット語の「サーガラ・ムドラー・サマーディ」を訳したもので、直訳すると、
大海の風がおさまって波が静かな時に天地のありとあらゆるものがそこに映し出されているように、煩悩の波風のない仏陀のさとりの心の中には一切の存在が真実なものとして現成している
という意味になります。
ようするに精神集中(三昧)の境地を表した言葉です。
あるいはこのことを「禅定(ぜんじょう)」と言ったりもします。
海印三昧と道元禅師
「海印三昧」は道元禅師ともゆかりのある言葉で、道元禅師がおしるしになった『正法眼蔵』の第13巻のタイトルにもなっております。
この『海印三昧の巻』は、仁治3年(1242年)に興聖寺にて説かれたもので、弟子の懐奘禅師が書写しました。
道元禅師はその中で、

諸仏諸祖はかならず海印三昧を体験している。この海印三昧はただ静寂であるばかりでなく、真実の教えを説く時があり、体験の時があり、修行の時があり、そこには決まりが無い。その働きは自由自在である。
とお説きになっております。
道元禅師がここで言うには、生死の苦海に沈んでいる衆生をすくいだそうとする願行も、あるいは救われる衆生も全てを含め、この「海印三昧」であるというんですね。
つまり、そもそも救う方と、救われる方とで見ることができないという、あるいは全ては父母未生以前の自己の展開であるという、あるいは1つとして溶け合っているという、この世界の「真実」のあり方を見ることが大切なのだという、その意思を捉えた言葉なのです。
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