道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は「家常(かじょう)」についてお送りいたします。
この記事を書いているのは
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
目次
家常とは?
「家常」とは、道元禅師がしるした『正法眼蔵』、第五十九巻のタイトルになっているものです。
そしてこの「家常」は寛元5年(1243年)に越前の禅寺峰(やましぶ)で説かれたもので、「家常」=「かじょう」と読みます。
その際この「家常」とは「日常の生活」のことを指しており、この「家常の巻」では「日々の生活がそのまま仏道である」ということを説いております。
以下は「家常」の中一文を引用したものです。
いはゆる此間は、頂にあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曽到此間なり、不曽到此間なり。遮裏是甚麼処在、祗管道曽到不曽到なり。このゆゑに、 先師いはく、誰在画樓沽酒処、相邀来喫趙州茶(誰か画樓沽酒の処に在つて、相邀へ来つて趙州の茶を喫せん)。しかあれば、仏祖の家常は喫茶喫飯のみなり。
また道元禅師はこの「家常」の巻の中で、「芙蓉道楷(ふようどうかい)禅師」が「投子義青(とうすぎせい)禅師」に尋ねた言葉、
仏祖の意句は家常の茶飯のごとし、これを離れて余に、また為人言句あいりやいなや
や、天童如浄禅師の
飢え来たれば喫飯し、困来たれば打眠す、炉鞴天に亙る
といった言葉を引き、仏祖の家常としての喫茶・喫飯の意味を説いています。
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