「人間の本当の仕事、本当の目的」とは?我々はどう明日と向き合えばいいのか?

いきなりですが、人の本当の仕事とはなんでしょうか?

時々考えるんですね。

今の時代、職を持っていなければお金も借りられない、家も借りられません。職を持っているというのは現代において、その人を評価する上で重要な指標となっています。

そんな中において果たして「職」とは一体なんでしょうか?

個人が人生に生きがいを感じるための手段?お金を借りるための手段?自身のメンツを守るための手段?

職もさることながら「我々の本当の仕事」とはなんでしょうか?

  • 家族を養うための手段?・・・うーん。
  • お金を稼ぐための単なる媒体?・・・うーん。
  • 正社員であること!・・・うーん。

私はですね、そんなものじゃないと思うんです。

仕事とは「命をかけるもの」です。それを行うために生まれてきた。そう言えるもの。それが本来の仕事です。そしてその仕事によって誰しもが生まれて来れてよかった。そう思えるのが本当の仕事です。

しかし実は誰であってもそんな仕事を持っているし、その仕事を毎日しっかりと遂行しています。またそこにおいては誰であっても自分にしかできないオリジナリティな仕事だし、それは自分以外の人間は着手することもできません。なので他者に脅かされることもない、他者と比較することもなくその仕事を行うことができます。安心して自分のその最高の仕事を全うできるんですね。

それではその仕事とは何か?

それは、

自分が自分を自分する、自分を引き受ける、自分を全うする

これが本当の我々の仕事です。これまで何度も口を酸っぱくして言ってきたので中には「なぁんだ、またそれか」と思われている熟練者の方もいると思います。笑

先ほども話に上がりましたがニートだの、お金を稼いでいるだの、やりがいを感じられるというのは人間が勝手に仕事に対してのイメージを設けているだけで、それは単なる概念の話でしかありません。

またその概念においては人によって、その捉え方が変わります。そのためその仕事に関しても人によっては楽しい、楽しくない。つまる、つまらない。そういった加減が生じてくるのです。

我々は自分が行うべき本当の仕事が見つかれば、それはどんなに人生を豊かにすることでしょうか?現在人生がつまらないのはそういった本当の仕事と出会えていないからで、明日に希望を持てないのは本来の仕事と出会えていないからではないでしょうか?

その本当の仕事とは何か?今回はそういった話をしていきたいと思います。

目次

人間の本当の仕事とは?

先ほどの、

自分が自分を自分する、自分を引き受ける、自分を全うする

これをさらに具体的に言えば「坐禅」を行うということです。

坐禅を行っている間は紛れもなく「自分が自分を自分して」います。なぜなら他の誰でもない足を組み、そこで生じてくる痛みとはあなただけのものだからです。その痛みこそ紛れもないもので、生命の実物とも言えるものです。

このように坐禅は「自分」をしっかりと引き受けた行いです。

例えばこの「坐禅」には足を組むこと以外にも種類があって、絶えず呼吸をしていたり、食べたものを消化していたり。

そういったことも全て「坐禅」と呼べるわけです。なぜならそれらも紛れもなく自分しか行うことができず、また実際の行動を伴う生命の実物だからですね。

ここに関してはのちにもお伝えしますが坐禅とは「今ここ、この命」「今のこの事実」のことを言います。

「坐禅」とは「自己の生命」という現象そのもので、誰もこの「坐禅」においては他の人の「坐禅」を引き受けられない、つまり自分が自分を自分できる瞬間です。

何もそんな大袈裟に言うまでも無い。そのように思われるかもしれません。しかし今我々がおざなりにしてしまっているこの「坐禅」こそ我々が生涯を捧げるべき仕事で、我々の人生の目的「そのもの」なのです。

なぜならそれはあなたにしかできないからです。そしてあなたが生きていく上で欠かせないものだからです。欠かせないというのはその名の通り、それがなくては生きていけないという意味です。

だから坐禅のことを「真実の行」あるいは、「仏行」と言います。

「一寸坐れば一寸の仏」という表現を聞いたことがある人は多いと思います。

坐禅を組むと足が痛くなりますが、これこそこの世におけるどれよりも尊い法なのです。なぜならその足を組めば足が痛くなるというのはストレートに世界と地続き、世界そのもの法でもあるからです。世界の事実を捉えているからですね。嘘偽りがないからです。

足を組むと足が実際に痛くなる。これは紛れもない生命の実物です。確かなものが見つかりにくい現代において、こんなにもありがたいことは本来ないですよね。

こんなにも信じられることも、頼りになることも、絶対的なことは他にないですよね。いつの時代においてもそうでした。

お釈迦さまも、ダルマ様も、道元禅師も、みなさまがこの坐禅を大切にされてきました。

この「坐禅」の正体に気づけた時、我々の進路が決まります。我々の命の使い方、時間の使い方、人生の歩み方が決まってきます。そして我々は希望を持ってこれからの人生を歩んでいくことができるのです。

例えば普通の会社員としての仕事であれば、その業務において自分よりも優秀な人間の存在というのがあるかもしれません。そしてそのせいで上司に怒られたり、しまいには「君はダメだ、終わっている」とまで言われてしまうかもしれない。

しかしこと「坐禅」においては決してそんなことはありません。誰もあなたの坐禅を変わってくれません。あなたの呼吸はあなたしかできないように、あなたしか引き受けられないのです。あなたの坐禅はあなたしかできない。誰かとの比較など決して生まれようもなく、上司に怒られたり、罵声を浴びせられることもない、優劣なども介入しません。

これぞ本当の「仕事」です。

本来人間は生まれたらこの「坐禅」だけを行っていればいいんですね。このことに気付けるまで私も本当に長い時間を費やしました。中には一生このことに気づけない人も多くいます。

いつの時代においても我々の本来の仕事というのはこの自分というハンドルをしっかりと握って運転すること。自分という人間を真っ当すること。生命の実物を行うこと。坐禅を行うこと。

本当にこれだけなんです。

AIが活躍する時代?関係ありません。戦争の時代?関係ありません。

過去?未来?現在?関係ありません。

この世界があって、あなたがいる。あとは「只管打坐」。

これだけなのです。

たったひとつ

「坐禅」は夜寝ている間、自分が眠っている間でも行われています。自分が寝ていても絶えず呼吸をし、食べたものを消化している。それも立派な「坐禅」です。

このように自分が寝ている間でもちゃんと自分を引き受けているんですね。我々は自分というハンドルを握っている。我々というのは実に優秀な生き物なんです。なので何も恥じることはないんです。あなたには、最高の「坐禅」という仕事があって、それにおいては誰もその仕事を奪ったりケチをつけたりすることはできません。

しかし目が覚めて会社に出社したりすると途端に我々はそれを見失ってしまう。誰かと比較をし始め、自分という「仕事」をほったらかしにしてしまう。手放してしまう。これではいけませんね。

「坐禅」は何よりも尊いものです。「坐禅」はあなたにしかできず、あなた以外この真実を行じることはできません。どんなに優秀な人間であってもあなたの足を組むことはできない。あなたの屁をこくことができません。いわんやあなたが食べたものを消化したり、あなたのかわりに呼吸や排泄することはできません。

「自分が自分を自分する」そう。それは世界でたったあなたにしかできない仕事なんですね。あなた以外行うことができない仕事なのです。

だから誰しもその「坐禅」を仕事にすればいいし、いくら忙しいからといって手放してはいけないのです。それを生き甲斐に、その「坐禅」を夢に、職にしなければならないのです。

みんなそういったやらなければいけない仕事を、大切な、宝のような仕事を本来持っているんですね。

それはつまりあなた自身が尊いという証拠でもあるのです。

しかしややもするとこの「やらなければいけない坐禅」ということがなんだか人間的に思えてくる。義務的に思えてくる。

坐禅というのは今、ここ、この瞬間のことを坐禅と言います。しかしその今、ここ、この瞬間の坐禅を行うためには呼吸をして、ご飯を食べなくては行えません。また坐るための場所があって、坐蒲がなければなりません。

呼吸が典型的な例ですが、呼吸というのは吸う酸素があって初めて成り立ちます。その酸素というのはどのように生成されているのかというと、植物が生成してくれているわけですよね。あなたの命は植物のいかんで成り立っており、植物がいなければ生きていくことはできません。つまりあなたは植物そのものでもあるとも言えるわけです。ということは坐禅においても、他者の働きによってあなたの坐禅ができるのであり、あなたの「今」がある。要するにあなたの命、あなたの坐禅は他者の働きによって生じるんですね。あなたは他者で、他者はあなたなのです。

この世に「自我」がないというのはこういうことで、この世の物事は「1つ」として2つに分かれるものはありません。坐禅を組んでいると、それがよくわかります。足を組めば痛くなる、それはこの世界の法そのものだからです。つまりこの坐禅は世界、宇宙そのものだということです。

今あなたが畳半畳で行っている坐禅は「世界」そのもの。自我の存在などどこにも入り込む余地がないんですね。だから有名な言葉でもありますが「仏法は無我にて候う」と言われるわけですね。

しかしいいんです。この「坐禅」が義務的に思えても。真実というのは「無我にて候う」、全てはたった一つの仏の命として繋がっているという時じちはきちんとあるわけですから、あなたは何も心配せず坐禅に取り組んだらいい。

他者が自分で自分が他者?世界は2つに分かれない?

なんだか難しい話になってきましたが、今ここに生きている事実のことを「坐禅」と言い、ひいてはその「坐禅」を行うことのできるこの畳一畳、この世界全体のことをひっくるめて「坐禅」という。今こうして坐禅ができている事実が全てで、あなたが坐禅をすることによって、世界は丸く収まるわけです。

坐禅とは今ここ、この事実のことです。この世は全てが一つとして交わる仏の命です。あなたの今ここ、この坐禅は別段、特別なものではなく、たった一つの仏の命なんですね。ただの真実です。今のこの瞬間、坐禅以外存在していないというだけです。

だから「只管打坐」。今までも、これからもこの「坐禅」、このたったひとつの仏の命しかあり得ないんです。我々は常にたったひとつの仏の命としてあり続け、過去の戦争やこれからの出来事も、たったひとつの仏の命として全体で移動し続けていますし、これからもあなたが死んだその先もその仏のたった一つの命としてあり続けます。

この世界には「今、ここ」しかありません。今ここが全てであり、過去であり、未来である。そして坐禅が今、ここ、この事実である以上、我々は坐禅をしなければなりません。今を生きるために坐禅をする。坐禅をするから今を生きられるといってもいいでしょう。いや、もっと言えば今が「坐禅」そのものなのです。

我々の生きる意味

だからもう少し我々はこの一瞬一瞬にきちんと目を向けていきたいんですね。今この坐禅を行じる、今この事実に目をむける。

我々の生きる意味こそこの「坐禅」なのです。我々の今この命こそ「坐禅」なのです。

いつかみんながみんなこの坐禅だけを行えればいいですよね。そういった時代が来ればいいのにと切実に思います。

みんなが安心して生きていけるようになるためにはこの坐禅が必要なんですね。あなたはあなただけしていればいい。この坐禅に気づくことができれば、みんなもっと喜びのある人生を歩めるはずです。

いまみんなが不安に思うのは給料や境遇などを誰かと比較したり、自分には誇れる仕事がないと思うからです。

自分はダメだと思うからです。しかし本当はそんなことないんですね。あなたはあなたしか生きられない。あなたの足はあなたしか組むことはできない。あなたを生きることができるのはあなたしかいない。

だからもうそこに素直になるだけでよくて「自分が自分を自分する」、それだけでいいんですね。我々の行うべきことは。坐禅するだけでいい。

そして坐禅をするために必要な食事を確保できればいい。坐禅をするために食う。坐禅をするために生きるんです。

あなたはあなたを全うするためだけに生まれてきた。坐禅をするためだけに生まれてきたのです。

これからそういう世界を実現したいですね。本当の生き方をみんなに知って欲しいし、それをしれば本当の安寧を得られるはずです。明日も朝起きたら坐禅をする、それが我々の仕事です。

誰もが明日も明後日も、ずっとそれを続けていく。どうですか?希望をもてませんか?人生に。

どんなに仕事が辛くても嫌でも、自分にはちゃんと本来の目的がある。だからへっちゃら。毎朝の5分、10分の坐禅のために今日も辛い職場へ向かう。明日また坐禅を行うために。いずれそのようにマインドチェンジすることができるはずです。

皆「坐禅」があれば明日に希望を持てる。明日も生きていける。そういった世の中にぜひしてみたいものです。

自分が自分を自分する。これがいかに尊いことで夢に溢れている行いか。だから道元禅師は「自己に親しんでください」とおっしゃるんですね。すべては「坐禅」に答えがあって、それを行じる「今」と「自己」に答えがある。

先ほどの話に戻りますが、足を組めば自分の足が痛くなるのは世界と自分とが1つだということを証明しています。足を組んで痛くなるというのは、紛れもないこの世界の法だからです。その世界の法、そのものがこの坐禅であり、あなたそのものである。我々はこのたった「1つの世界」において、「自分のみの世界」において自分をしっかりと行じる。

諸法無我。これは言い方を変えればこの世は自分のみということです。その自分のみの世界で自分が自分している。だから坐禅なのです。

自分が自分を自分することで世界は救われます。なぜなら世界の全てと繋がっているあなたが真実の行いをしてくれるからです。

あなたにしかこの世界を救うことはできません。誰も変わってくれない自分のこの命、この命の起こり。この命が起こすもの。そしてその命をまっとうすること、これが我々に与えられた本当の仕事です。世界と自分とが一つのこの世界で自分が自分を自分する。それはすなわち世界を呼吸させているのと等しいことなんですね。それこそあなたが、我々がやらなければいけない仕事です。

なのでどうか「世界を救う」つもりで「坐禅」をしてみてください。

人間はただ単に生まれて死んでいく。それではダメなんですね。

犬や猫のように我々も真実の生き方をしなければならないのです。いつしか文明を築き、豊かな生活を送ることが我々人間の生き方のように思われておりますが、そうではありません。どのような時代に生きていようと、その世界と自分とは地続きで、今もその世界と自分とは地続きです。生きている時代など関係なく、我々の目標はどの時代においても坐禅をし続けることなのです。

我々の正体は本来仏です。だから単純に仏行である坐禅を行う。そういったシンプルな考え方でもいいと思います。

「坐禅を組んでいるだけ。お前の人生つまらんのぉ!そんなのでいいものか!」このように怒る人もいるかもしれません。

しかし本当にそれだけでいいんですね。そしてそれが何よりも豊かな人生です。もちろんそこに比較があってはなりません。坐禅をしている私は他の人間より幸せだ!なんてふりかざしたらそれこそ野暮というものです。だから静かにあなたはあなたの仕事を全うすればいい。

人生において何も恥じる必要はないんです。大いに笑い、大いに食べ、大いに寝ましょう。そしてご飯を食べたら足を組む。生かされていることに感謝し、毎日坐禅を行う。それができたならあなたの人生は大往生です。

本当にそれだけでいいんです。あなたがこの世に生まれてきた理由は、自分を生きるためです。自分を引き受けるためです。つまり「坐禅」を行うためです。

生きている間はこの繰り返しです。そしてそれこそ我々の本来の仕事です。

明日しか生きられない命だとしても。その残された1秒で坐禅を行う。それだけで我々の人生の目的は果たされるのです。

お金を稼ぐ方法は?

我々が坐禅以外で他に行うべきことは、本当の仕事(坐禅)を支えるためにお金を稼ぐことです。そしてその稼いだお金で自分の体を労わることです。しかしそのサイドビジネスが今や人間界における本業になってしまっているんですね。そしてその本業が見えていない、本業に気づけないまま死んでしまう人がほとんどなんです。

それでは本末転倒です。こんなに悲しいことはありません。そこが逆になってしまってはいけないのです。

生まれてきたらその自分だけの仕事をまっとうすればいいのに、なぜかそれが分からない。社会人になること、ニートになること、大手企業に勤めて、多くの金額を稼ぐこと、家を買って、高級車を乗り回すこと。

こういったことを人間の仕事だと勘違いしている。

よそ見なんてしている場合じゃないのに、そのよそ見だけで人生が終わってしまう。

まさに「本末転倒」です。

私は我々が今行っている会社員の仕事、バイトの仕事、主婦だの、なんだの、それを「もう一つの存在軸でもある人間生活における立派な仕事」だと思っています。

見方によっては毎日新聞配達をする。これも立派な坐禅です。

それに概念だろうとお金は大切です。

概念だろうと、それが世の中の根幹にあるのだから我々も甘んじてそのシステムには従わなければなりません。

税金も納めなければいけません。

しかしそんなもの考えるまでもないことです。黙って従えばいいんです。概念だろうがなんだろうが、腹が膨らめばそれでいいのだから。

それではそのお金を稼ぐためにはどうすればいいのか?バイトをする?就職をする?

やっぱりそういう苦労をしないといけないんじゃないか!と、どうかそう、すごまないでください。

そんなものしなくても「喜捨」をもらえます。

つまり托鉢ですね。

あなたが出家をし、きちんと頭をそれば、別にバイトをしなくても会社員にならなくてもお金が手に入ります。お金じゃなくてももっと手っ取り早くお米やパンなどがもらえるかもしれません。

本来これが我々に許された唯一のお金の稼ぎ方なんです。タイを代表とする仏教国ではいまだにこうした托鉢が盛んですね。

稼げる金額は少ないかもしれないですが、この托鉢があれば何とか毎日を生きていくことができます。

しかしそのためにはあなたはきちんと出家をして、修行をしなければなりません。誰でも彼でも行えるものではないんですね。

一般に言われているお布施とは「財施」のことであり、お坊さんの誦経や法話という「法施」に対する気持ちのありったけを金銭などの財物によって表現する。したがってそれはあくまでも「志」であり、「志」に意味があり、我々僧侶もそのありがたさをいただいています。例えば一千円という額も、金額で言えば一千円ですが、貧しくてその日の暮らしにも困っているような人からの布施なら、それは全財産を傾けてもらったほどの重みがあるわけです。

なので喜捨する側においてもお坊さんにお布施をすること。これも立派な仏道修行です。個人の持ち物を捨てる。悩める個人を本来の世界へ誘うのが坐禅や托鉢であり、それを実際に行ったり、行わせるのもお坊さんの仕事でもあります。お金は概念で、そのことに気づいてほしいというのがこの托鉢なのです。この世に個人の持ち物など何もなく、お金は単なる概念だから、そんなものに囚われてくれるなよ。

そう気づかせてくれるわけです。

人々を真実に気づかせる。そしてその結果としてお金が入ってくる。これが托鉢であり、本来許されたお金の稼ぎ方なんですね。

喜捨される金額なんて二の次です。

しかしこのやり方であれば社会と交わる必要もない。頭をそり気が向いたら托鉢に行く。

最高に楽しい生活ですね。

そのように生きられたらどんなに良いことでしょう。

世界は待ってます。あなたを。あなたが托鉢してくれているのを。あの大きな駅から真実の輪が広がるのを。お釈迦さまは待ってくださっています。

しかしこうやって回る、そっち側で言うところの経済もあるんですね。

むしろこのやり方が本当の社会システムかもしれません。

まとめ、将来、坐禅と托鉢だけして生きていけるように。

我々には誇るべき仕事がちゃんとあります。

どうかそれを忘れずに明日も生きていきましょう。

毎日10分でいいから坐ってみる。

私たちの本当の仕事をしてみる。

そうするだけで実に心が安らぎます。我々が仏であるが故の本能的な安心からでしょうか。言葉で説明しなくても体がわかってくれているんですね。

坐禅=「安楽の法門」とはよく言ったもので、まさにその通りなんですね。心が安らぎます。坐禅こそが全てで「家から出たまま迷子になっていた仏たちが本来の仏の家に帰っていく行い」だからです。

ありがとうって。自分を大切にしてくれて、真実に気づいてくれてありがとう。そのように言われている気がして騙されたかのように心が安らぐのがわかりますよ。

今でいえばニートだの何もしていなどと言われるかもしれませんが、「坐禅だけする」これが私の夢です。

はたから見れば「何もしない人間」。それでも一向に構いません。

私は私を私するだけです。それをするために生まれてきたわけですから。それでいいんです、

むしろ一生片付かない仕事なんですよ、それは。一生修行。一生坐禅です。

寝ている時も坐禅(呼吸、消化)。起きている時は坐禅と托鉢。ね?忙しいでしょ?でもやらなければなりません。

それが本当の生き方、我々仏のあり方であるならば、その本当の生き方を実践しなければなりません。

この記事をお読みになったお坊さん、どうか一緒にそういったことをしましょう。

寺が金稼ぎなんてしてはいけません。寺がそんな社会的なところになってしまったら、檀信徒が悲しみます。我々は常に真実であり続けること、真実の場所であり続けることです。

彼らはなぜ社会的なことをしているのかというとそれは気づいていないからです。一般の人たちはそれがわかっていない。真実というのがなんなのかわかっていない。わかりたくてもわかるはずがないのです。それをわかっているのがお坊さんであり、お寺なんです。そしてその本来の世界へみんなを導く。坐禅を自らが率先して行い、坐禅を勧める。

それなのにそんな社会的なことをお寺がやり出したら悲しみますよ。

我々は食えなければ食うなです。

社会や人間のわだかまりなどに関わってはいけません。お寺は絶対的な安心な場所です。人間界の概念による嘘、偽り、騙し、そういったことをどうか持ち込まないでください。そしてどうか檀信徒の皆さんを裏切ることのないよう精進しましょう。

世界のみんなが坐禅と托鉢しかやらなくなったらどうするかって?その托鉢に出すお金はどうするかって?そんなものは心配しなくていいです。その時は何もないか、着物だったり装飾品だったら、お食事を恵んでもらえばいいのです。

お食事すらもなくなったら?そもそもこの地球がなくなったら?

そうですね。そしたらその「何もない」が「全て」です。何もなければ何もないまま、それだけです。それが仏のあり方です。

それに何もないところからしか「何か」は生まれません。なので何もなければ何もないが「全て」で、またそこから始まるだけです。

そもそも地球だの、宇宙だの、何もない、というのは人間の単なる概念にしかすぎません。目に見えないだけでそこにもしかしたらたくさんの何かが映っているかもしれない。

とにもかくにも、全ては全て、全ては仏なのです。余計なことに神経を使わず、坐禅をしましょう。

そもそも何もないというのが果たしてあるのかわかりません。現にこの地球は何もないところから始まったと言われています。

今ここにこの自分がある、確かなこの足の痛みがある。それだけなんですね。当時の「何もない」が今、この今の足の痛みを生み出しています。今ここが全てなんです。今ここにしか真実はあり得ない。昔のことなど、これからのことなどどうでもいいことなのです。今ここで終わり、世界がなくなるのであればそれはそれでいいんです。世界がなくなる。それが我々の目的の行き着くところかもしれないのだから。それはありがたいことかもしれません。

世界のことなど地球のことなど、今後の宇宙のことなど気にしなくて構いません。

今ここにある自分、これこそが本当の宇宙です。今ここ、この坐禅が宇宙いっぱいなのです。

あなたは何も心配することなく、坐禅だけしてればいい。

AIに仕事を奪われる?大いに結構じゃありませんか。私たちはその分坐禅を組めるようになる。本来の目的に向かってさらに人生の歩みを進めることができる。

過去の偉人たちのおかげでどんどん便利な世の中になった。本当にありがたいことですね。全ては我々の今ここ、この「坐禅」のためにあったのです。全ては地続きで、1つなのです。

1人1人が坐禅を行う、坐禅だけを行う。そこから子へ続いていく。人間の本当の生き方が紡がれていく。1人1人が坐禅を行うこと、これが人における目標でそれがすべてで、これがとっておきの布教となります。特に宗教者の方は率先してこの坐禅を行う。それに倣って一般の方も坐禅を行う。そしていつか人間はそれで本当に救われる。だからあなたはどうか坐禅だけを今後行っていって下さい。

全ては「仏の手のひら」、どうかこれを胸に明日も生きましょう。

かなり暑苦しい投稿となってしまいましたが、たまにはこういうのも良いのではないでしょうか。私においてはこの文章を書けたこと、あなたにとってはこの記事に出会えたことが全てです。この事象が起こるためにこれまでの全てがありました。このご縁に感謝です。合掌。

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