L’Arc〜en〜Cielの「finale」にみる、大自然の有り様。

日本を代表するアーティストに「L’Arc〜en〜Ciel」がいます。

私も大好きなアーティストグループの一つです。

そのラルクが提供する楽曲に「finale」というものがあります。私はこの曲が大好きなのですが、その中の歌詞に、

「永遠に沈むその祈りに答えもなくただ水面が揺れている。」

という一節があります。

毎回聴くたびに感銘を受けるわけですね。と同時に少し気づいたことがあるので、今回はそれにまつわる話です。

目次

大自然とは「ただ」

この曲は映画「リング0」の主題歌にもなった曲です。ボーカルのhydeさんいわく、「もし貞子が恋人だったら」という視点で作詞したそうです。

しかし仮に人間同士どんなにお互いが愛し合っていたとしても、またその愛情がどんなに深いものだったとしても、その祈りに対し、水面が答えを示すことはありません。反応すらしません。

ただ答えもなく揺れているだけ。

いつの世も、どんな境遇であっても、どんなに深い愛情であっても、それが水面に伝わることがありません。

人間からすれば手応えのない話です。

しかしこれが自然の姿であり、そしてすべてにおける本来の姿だということです。

残念ながら人間がどう薄情に思おうが、「本来の姿」がこれなのです。この「ただ」なのです。

同時に人間もこうでなければならないということですね。何故ならそれが「大自然の姿」だからです。我々もその大自然の一員だからです。

「ただ」ということ。「ただ」であるべきということ。「只管」ということ。

「只管打坐」。何にもならないこの坐禅。人生でなんの足しにもなりません。悟りを開けるどころか、下手すれば寿命が縮まることすらあります。

普通の人間であれば、やる意味がないと思ってしまうのが常識です。

なぜそんなことをするのか。意味のないことをするのか。

この「ただ」が本来だからです。本来の大自然の形だからです。ただ、ただ我々のあるべき姿だからです。

しかし見方を変えれば我々にとって自然の形、最もかっこいい形、美しい形がこの「只管」だということです。

我々はこの「ただ」だけしていればいいんですね。何もせず「ただ」であればいいのです。何もできず「ただ」であってもいいんです。そこに何かを意味を持たせたり、美しさを持たせたり、崇高な意味など持たせなくていいのです。

ただ、ただ、ただ。それが最もな状況なのです。

この「ただ」がすべてを明らかにしているわけなんですね。真実を明らかにしているんです。真実の有り様なんです。つまり悟りなのです。

真実とは何か、坐禅の意義とは、正しい生き方とは。このようなことばかり考えてしまう我々ですが、「只管打坐」。大自然の姿。本来の姿。「ただ」という形。それだけなんです。

要は大自然が「答え」なのです。

その水面に人間の願いが通じることはありません。しかしそれが通じなくてもそこにはただ水面があります。

その水面だけが、あるいはその「ただ」だけが、存在物なのです。真実なのです。「ただ」だけが尊いのです。

意味がないからいいのです。意味がないから本来なのです。意味があってはならないのです。

「ただ」という有り様が、最も尊いのです。

「人間の思い」と「水面」。両者が交わることは決してありませんが、だからこそ我々はその「水面」に対して安心して問いかけることができるのかもしれませんね。祈りを込めることができるのかもしれません。

あるいは水面が美しいと感じるのも、そこに特定の意味が何もないからそう感じるのかも知れません。「ただ」だから、誰の目にとっても平等に見える。美しく見えるのかも知れません。

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