我々人間は、
- 「何故人は生きなければならないのか?」
- 「何故私はこの世に生を受けたのか?」
- 「人の真の生き方とは何なのか?」
こういった疑問を常に抱えながら生きております。
この疑問を解決するべく生きている、そういっても過言ではないかもしれません。
ただ何となく生きている人でも、この疑問からだけは逃れられないのです。
「気楽にいきていこー」とか「小さい事は気にするな」とか「生きている意味なんて考えてる暇ないんだよ!」とかそういった考えのもと生きている人はどこかかっこいいし、素敵な生き方のように映ります。
しかしそういった人でも必ず考えるんです。
僧侶であっても、一般人であっても、大統領であっても、アーティストであっても。
ヨーロッパの人であっても、アラブの人であっても、南米の人であっても。
誰しもがふとした時に立ち止まり、先ほどのような疑問を必ず抱くんです。
どのような人間でも、この疑問は生きていると必ず生じる通過儀礼なのです。避けては通れない試練なのです。
これが我々の「本願」だからです。人間にとって解決しなければいけない問題だからです。
我々はその試練にきちんと立ち向かい、「決着」を付けなければなりません。
そこで必要になるのが、道元禅師の「教え」です。
我々が立ち向かおうとしているこの疑問。もし本当にこの疑問が解消されることになれば、我々は自信を持ってこれからも生きることができます。心安らかに生きることができます。
後世の人間も救われてくることでしょう。
いかにこれが重大な出来事であるかということですが、それを道元禅師は解消してくださるということですね。
「人は生まれながらにして仏であるのに何故修行しなければならないのか?」
幼い頃、両親と死別した道元禅師は、その幼いながらにこのような「疑問」を抱かれました。
幼い子供からすれば非常に大きな問題だったと思います。同時に我々にとっての「本願」をその幼い年で気づき、拾い上げていた道元禅師の器量が伺われるわけですが、残念ながらこの問題を解決できる人間が当時の道元禅師の周りには誰一人いなかったわけですね。
これは個人の悩みではなく、人類そのものの悩みとも言えるほどの強大な問題だからです。またそれを解決できた時、未来永劫、人類全体に本当の意味での安寧が訪れるはずだからです。
そこで栄西禅師の勧めもあり、中国へとわたり、正師とも言える「如浄禅師」とまみえ、身心脱落なる「お悟り」と出会います。坐禅こそがその身心脱落であり、お悟りだったわけです。そこで坐禅の尊さを学ばれたわけですね。坐禅こそ究極の解であると、坐禅こそが人の真の安寧、「安楽の法門」であるということを知ったのです。
帰朝の際にはかの「眼横鼻直」という言葉も残されております。
我々は元より悟っており、この世界に1つとして悩めるものはいない。この身1つとってもそうだと。現にこうして眼は横に、鼻は真っ直ぐについているじゃないかと。寝ている時でも呼吸をし、食べたものもちゃんと消化されるじゃないかと。
これ以上の悟りはない。
全てにおいて真実がむき出しで、この上ないあり方として形をなしている。
中国で道元禅師はこのことを知ったのです。
以来、道元禅師のお伝えになる話にはこうした真実における内容がしきりに出て参ります。
真実の仏法に気づかせるために棒で相手を叩いたり、「喝」と大声で叫んだり。説法をするために須弥壇に上ったのに、何も言わずに降りてきてしまったり。
そういった話を悉く扱い、手を変え品を変え、真実を説こうとしてくださるのです。
そしてその真実とは結局のところ今のこの自己、ここの自己の展開なのだと。それ以外の「法」はあり得ないのだと。我々は例外なく安心できるようになっているわけです。
当時、日本に未だ到達していなかった正伝の仏法。それを持ち込んでくださったのが道元禅師です。
この世界の真実。そして今、全てが、この自身の命と繋がっている。この足の痛みがそれを証明しているわけです。坐禅にはそういう教えが詰まっているんですね。坐禅にはこの世界のすべて、仏法の大道が詰まっているわけです。
いかなる事実においても、全て仏のみなのだと。全て真実のみなのだと。
我々が従いゆくべきはこの坐禅であり、その坐禅の尊さを説いた道元禅師の教えなんですね。
なぜ生きるのか?生きる理由は?
時代は変わっても、人間には必ずこの問いが生じます。これからもっと便利な時代になりますが、そこでも必ず生じます。
しかしその悩みすらも大自然の導き、大自然の命なのだということ。この私も、その私の悩みすらも全て大自然の所有だということ。
要するに、全ては大自然の通り、仏の通りなのです。この世界の全てが仏に一任され、仏というたった1つの命として循環している。今、ここ、この自己の命がそうなのだと。
事実、この世界には「我」がありません。今こうして何かが聞こえてきたり、匂ってきたり、見えるのは、他が私だからです。他によって私という命が起こされるからです。
なのでこの世界では「我が思う、我が悩む」ということがそもそもあり得ないのです。
この世界の真実。その真実が消えることはない。1mmも減ることもない。これからどのような時代になっても1mmも減ることはない。そんな真実と常にともにあるのがこの私という命である。生きている以上、その真実から漏れることがない。仏から漏れることがない。そういうことをお伝えになろうとしているわけです。
普通そんなこと思いもよりませんよね。そんなことに気づかずに死んでいく。そういう人がほとんどのはずです。
しかし、こういうことがちゃんとあるわけですね。
そのようなことを道元禅師はこの足の痛み、つまり「坐禅」を通しお伝えになられるわけですね。
この真実に気づけた時、我々の足枷は取り除かれます。水の中にいる魚のように、生きる喜びすらも忘れ、魚が魚として、我々仏が仏として本当の意味で生きることができるのです。
それが我々が本当に生きるということです。これこそが「人生の解」だということです。
ご存知の通り、道元禅師のご宗旨は「只管打坐」です。ただ足を組むことを盛んにお伝えになられます。
人間によっては、さまざまな見え方や考察ができることでしょう。私は力量不足でこれ以上のことは何も言えませんが、足を組むと足が痛くなります。それは紛れもない真実です。この世界の正体です。
それだけはわかることなのです。それだけは真実なのです。
坐禅は真実の家に帰る。本来我々が住まうべき場所に帰る行とも言えるのです。
人生の答えとして、これ以上のものはありません。これ以外のものはいりません。
みんなの本来いるべき場所、本来住むべき家。帰る場所だということです。そういうことがわかるだけで十分です。
そこで足を組む。それこそが我々の本来いるべき場所、目指すべき場所。帰る場所。それこそが我々の本来の生き方だということがわかるわけです。
あるいは坐禅をしていると、鳥の声が聞こえ、車の走る音が聞こえ、呼吸をし、色彩豊かな緑が見えてきます。実際に他によって自分の命が起こっていることがわかるわけです。この世界では全てが1つの命として成しているということがわかるわけです。
いずれにせよ、我々は常に紛れもなくこの世界の真実の命をいただいているんです。そこではこれ以上も以下もない命を常にいただいているんですね。
常に世界の真実と共にあるわけです。1つの命として生きているわけです。だからこうして1秒ごとに老化していくわけです。
我々は常に真実と共にある。これ以上も以下もない真実と共にある。何をしようが、どうなろうがこの真実が常に展開してくる。救われないことがない。生きている以上救われないことがない。
それに気づかせてくれるのが、坐禅、あるいは道元禅師の教えだということです。
我々はいつの世も悩んでばかりいます。救いとは何か、本来の生き方とは何か。しかしそれを求めることは、水の中にいることに気づかず、ざるでどうにか水を掬い上げようと、もがいているようなものなんですね。今述べたように本来救われているわけですから。
幼い頃、道元禅師も同じような疑問を持たれ、そこで苦しんでおりました。
しかし真実に気づけば、この世界は常に水の中であるということに気づければそんなことに悩む必要はもうなくなるわけです。あとは坐禅を行い、その水の中にいる努力だけをすればいい。
こんなにも人生というのはシンプルなのです。
しかし一方で「悩みは元からなかった」、あるいは「人は生まれながらにして仏である」や、「生まれながらにして救われている」といったことは、悩むからこそわかることなんですね。向き合うからこそわかることなんです。言い方を変えれば、悩まないことには一生辿り着くことができない答えなのです。
そういった意味でもきちんとした修行が必要ですね。誰もがこの悩みと向き合う必要はどうしても出てきてしまう。だからこその「本願」のわけです。
このような悩みに誰しもが一度は頭を掻きむしりたくなる時があるでしょう。しかしそこを坐禅が救ってくれます。またその坐禅は誰もができます。
水の中にいる努力。これは生きている限り必要だということです。そしてこれが「我々が生まれながらにして仏であるのにも関わらず修行が必要な理由」です。言い方を変えれば我々の生きる目的です。修行が人生なのです。坐禅が人生なのです。
この足の痛み。我々は本来一人一人が仏(真実の人)で、常に仏のみの世界にいるわけですから、そこを出ようとしないで、ただその世界にいればいいのです。それがただ坐るということです。
我々が本来の世界で生きること、真実の命を生きること。生き続けること、生き抜くこと、それが坐禅なのです。またあるいは本来の役目を果たすこと、死にきること、成仏すること。それが坐禅のわけです。
なるべく坐禅をするようにする。それが我々が生きるということだから。その足を組んだ姿が我々の救いだから。全てを包括している瞬間だから。
我々が生きるということは「坐禅」をするということです。
なので道元禅師はこの『普勧坐禅儀』でもって「只管打坐」を推奨されるわけですね。また曹洞宗というご宗旨が声をあげて、この坐禅の尊さをのべる理由です。
道元禅師を学ぶということはこういうことを学ぶわけです。学んでいるわけです。
真実のこと。本来のこと。
とてつもなく巨大なものに我々は立ち向かっているわけです。
これまでもこれからも、多くの人々の支えになる「道元禅師」。
私のような人間が「道元禅師」について語れることはほんのわずかしかありません。
しかし私自身「死ぬ気」で今後もこの「道元禅師」に関して学びを深めていく所存で、これからのあなたの人生が少しで豊かになればという思いで、今後もこの「道元禅師の旅」を発信し続けて参りたいと思います。
これからますます精進してまいりますので、今後もどうか温かい目で見守ってくださればと思います。
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