「即心即仏」とは何か?

この記事では「即心即仏(そくしんそくぶつ)」とは何かについて解説していきます。

「禅」において大変奥の深いワード、「即心即仏(そくしんそくぶつ)」

早速、読み進めてみましょう。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

目次

北海道を開拓した屯田兵

冒頭から少し余談をさせていただきたいと思います。

1800年後半から「北海道」の地に「屯田兵」というものが導入されました。

屯田兵とは

明治維新後、旧幕府側の武士たちは、禄を奪われ窮乏しました。屯田兵とは、そのような士族の救済と北海道の開拓、北方警備を担うために、明治政府によって北海道各地に組織的・計画的に移住・配備された人たちのことを指します。

GOOD DAY北海道さんより引用

それは明治維新から間もなくの事です。

北海道ならではの厳しい寒さの中にもかかわらず、未だ未開の森林が多くあった北海道の地を屯田兵たちはどんどん進んでいき、開拓していったのです。

その屯田兵のがんばりのおかげで、未開の地は開拓されていったんですね。

さて、我々人間は「心」をよりどころにした生き物です。

なので正しい場所を開拓する為に我々人間も、この「屯田兵」と同じく自分の「心」を耕し開拓していかなければなりません。

それを仏法で言う、「心田を耕す」と言います。

心の田と書いて「心田」ですね。

そしてその際、「心」の正体が分からないと、自分が一生懸命開墾したこの「心田」を失ってしまうことになります。

なので仏法修行においては、この「心」を明らかにし、「心」を耕す事が重要となるわけです。

何故なら我々は「心」をよりどころとした生き物だからです。

即心即仏とは?

今述べたように仏法においては「心」の存在を明らかにし、「心」を耕していくことが重要になります。

それを踏まえて、本記事の本題、「即心即仏」の話題に入っていきましょう。

ここではこの「即心即仏」とは一体なんなのか?それを過去の禅僧による逸話を取りあげながら解説していきます。

昔、「大梅法常(だいばいほうじょう)」禅師(752年-839年)という人がおりました。

この方はかの有名な馬祖道一禅師の弟子にあたる方です。

そしてこの「大梅法常」は中国唐の時代の湖北省に生まれた方で、幼いころから修行に励むと同時に、非常に頭の良い方であったと言われております。

そんな大梅法常禅師が師匠にあたる馬祖道一禅師にある日質問をするんですね。

大梅法常禅師

如何なるかこれ仏。

何が本当の真実ですか?

と、質問をされるんです。

すると、お師匠さんの馬祖道一禅師は、

馬祖道一禅師

即心即仏

という風にお答えになりました。

つまり、

「心」がそのまま「仏」です

という風にお答えになった訳です。

ここで馬祖禅師が言う「心」というのは、我々が普段捉えている所の「心」ではありませんね。

仏法における心とは?

それでは仏法において何を「心」というのか?

それは、

我々の生きている事実の事を、「心」

と言うんですね。

馬祖道一禅師

「即心即仏」。お前さんのその「心」が、「生きている事実」で、「仏」そのものではないか。

つまり、ここに生きている事実こそが全てであり、その生きている事実こそ「心」だと言うんです。

それを聞いた大梅法常禅師は真実に目覚めることができたと言います。

大梅法常禅師はそれからというもの40年もの間、山の奥地に入って人知れず、誰からも分らないようにして生活をしておったと言います。

真実に目覚めたならば、世間や社会に働きかければいいものを大梅法常禅師は、人知れず山の中に四十年間も入って生活をされたと言うんです。

大梅法常禅師はせっかく悟ることが出来たのだから、その「真実の道」を社会や世間に働きかけたり、沢山の方に布教したり、困る人々を導いたりすればいいものの、そういったことを一切放棄されるんですね。

しかしこれが「真実」です。

何も人に働きかける物もない、社会に号令を掛けたり、宣伝するものが何一つない、これが「仏法」です。

何故なら今自分が生きている事実が「悟り」で、その自分が見ている目の前に展開する全てが「真実」を現成しているからです。

それなのに社会に働きかけたり、号令を掛けたりするという行為に出てしまうと、それはたちまち「人の行為」に様変わりしてしまうのです。

ですから、そういった働きかけを一切放棄されるんですね。

誰かに見られようと思って「花」は咲かない

ここにある詩があります。

人里(ひとざと)から何里(なんり)あろうか、山桜花(やまざくら)。

これは佐賀の山隠れ武士、「山本常朝(やまもとじょうちょう)」(1659-1719年)の詩です。

この山本常朝は江戸時代の武士ですが、42歳の時に出家をされた方です。

そしてこの詩は、「山桜が誰に見せる訳でもなく山の奥で咲いている、自分を行じている。」その様子をうたったものなんですね。

「この山桜、もっと人里に降りてきて、満開に咲かせるようすを沢山の人に見せたらいいのに」。

そういう思いをしておったのでしょう。

そんな思いとは裏腹に、誰の目にも触れられずにこんな山奥で満開の花を咲かせている。

その「山桜」を見て、この山本常朝も真実に目覚めたと言われております。

この誰の目にも触れる事のない「山桜」。

ただ「自分」が「自分」を行じている。

それこそが「仏法の真実の在り方」であり、「大自然」の在り方です。

そのことをこの山桜から教わったんですね。

勿論、ご縁があれば社会に働きかけたり、声掛けることはとても良いことです。

仮にご縁が無ければ、先ほどの大梅法常禅師のように40年間「山」に入って、人知れず生活しても何も問題はありません。

話を大梅法常禅師に戻します。

大梅法常禅師が山の中にこもり、40年経ったある時の事です。

「円観西行(えんかんさいぎょう)」という、こちらも大梅法常禅師と同じく馬祖道一禅師の弟子にあたる方ですが、その円観西行の修行道場で修行をする、ある一人の修行僧がおりました。

その修行僧が「杖」を作るために、材料となる「木」を探しに大梅法常禅師の住む山に入ってくるんですね。

そして山に入ったはいいが、すっかり道に迷ってしまうんです。

するとその山の中に粗末な庵があるのを発見します。

その庵の中を見てみると、衣類もままならないぼろ服を着た和尚さんがいたんですね。

それが大梅法常禅師です。

そして道に迷った修行僧が、この大梅法常禅師に質問をします。

修行僧

和尚さんはこの山に入ってどれくらい経ちますか?

あまりにもぼろぼろな「お袈裟」と「衣」を身にまとっていたのでありましょう。

「和尚さんは山に入ってどれくらいになりますか?」と、質問をする訳です。

すると、大梅法常禅師は次のように答えます。

大梅法常禅師

唯此山の青くまた黄色になるを見るのみ

つまり、

ただ山に入って、山の木々が青くなったり、黄色くなったり、紅葉したり、新緑になったりするのを見るだけである。

と答えたのです。

質問の趣旨に反した答えが返って来たんですね。

どういうことでしょうか?

随流去

話は一旦逸れますが、「人間」というのははまずはじめにに「暦」を付けたがるといわれています。

有名な童話で『トムソーヤの冒険』がありますね?

その中で、「トムソーヤ」が無人島に漂流するところから物語は始まります。

そしてその「トムソーヤ」がまず最初にやったというのが「暦」を付けることだったといいます。

つまり暦を付けることによって「世間」との関わり合いをきちんと持とうとしたんですね。

これが我々人間であるし、他人と生きていくためには必要なことです。

しかし先ほどの大梅法常禅師は「ただ、山の木々が青くなり、また紅葉して黄色になるのを見るのみ」と言います。

一切の人間との関係を断ち切っている「発言」なんですね。

そこでこの修行僧は、

修行僧

どうすれば山から出られるでしょうか?私は道に迷ってしまいました。

と大梅法常禅師に質問をします。

すると、大梅法常禅師は次のように答えます。

随流去

つまり、「流れに従って行くがよい」とお答えになりました。

「随流去」、非常に意味の深い教えをここで修行僧に答えた訳です。

その修行僧は言われるがまま、無心で山を下りた結果、修行道場に帰ることができました。

そして師匠である、円観西行禅師にその時の事を報告するんですね。

すると円観西行禅師が、

円観西行禅師

私と同じ馬祖道一禅師の元で修行した者が、山の中に入ってもうしばらく消息を断っているという噂を聞いたことがある。たぶんその方は大梅法常禅師であろう。

そこで大梅法常禅師を自分たちの道場に招待をします。

「山を下りて大きな寺の住職になりませんか」と、大梅法常禅師を招こうとするんです。

しかし本人は一向に山を下りてきません。

するとそのような事になっていることを知った師匠である馬祖道一禅師が、弟子達を大梅法常禅師の住む山へと派遣します。

そして「お前さんはどうしてこの山の中に入って来たんだ。」という風に弟子を遣わして大梅法常禅師に質問させるんです。

すると、大梅法常禅師は

大梅法常禅師

私はかつて我々の師匠である馬祖道一禅師から、本当の「仏」とは即心即仏であると教わりました。それなので私は山の中に入っているんです。

かつて「如何なるかこれ仏」と師匠の馬祖道一禅師に質問した時に返って来た「即心即仏」という答え。

もうそれ以来すっかり「安心」をしていました。

「自分」が「自分」を行じれば良いという事にしっかりほぞ落ちが出来てしまったのです。

その結果、どのような場所でもこの「教え」さえあればいいんだと確信し、山の中での生活を選んだ大梅法常禅師。

派遣された弟子は、師匠である馬祖道一禅師の所に戻って報告をします。

馬祖道一禅師

そうか大梅法常は「即心即仏」だと言っているんだな。そしたら悪いがもう一度行って、「非心非仏」だという事を伝えて来てくれないか?心に非ず、仏に非ずだ、という風な事をお前の尊敬する師匠が言っているぞと。

そのようにまた、弟子を大梅法常禅師の所に派遣します。

するとこの大梅法常禅師は

大梅法常禅師

そうか、師匠の馬祖道一禅師は今では「非心非仏」と言っているのか。それはそれで良いであろう。私はどこまでも「即心即仏」だ。

という風な事でますます、山の中に入って消息を断ってしまったという逸話があったんです。

ここで馬祖道一禅師の言う「非心非仏」と、大梅法常禅師の言う「即心即仏」はつまり同じことを言っておるんですね。

目の前に展開する一切は「真実」であるのだから、それを「心」と言おうが、そうでなかろうがどちらでも良いという事です。

即心即仏とは何か?まとめ

「仏法」は世間に号令掛ける事でもない、霊験を得る為でもなければ、名誉を得る為でもありません。

ただ「道の為に道を行ずる」、「自分が自分を自分していく」。

それが仏法の在り方です。

そして先ほども言いましたが、この仏法における「心」とは「今ここに生きている事実」のことを「心」といいます。

なので「即心即仏」であろうが、「非心非仏」であろうがここをしっかりと理解していればどちらでもいいことなのです。

道元禅師のおすすめになる「坐禅」というのはまさに「心」を行じています。

「即心即仏」、「非心非仏」を行じているのです。

何故なら、「今、ここ、この自分」を宇宙一杯に行じているからです。

これが仮に、世間に号令を掛けたり、霊験を得るために行うのなら、仏法ではないし、坐禅ではないわけです。

しかし道元禅師のおすすめになる坐禅は「今、ここ、宇宙一杯の真実」の行です。

ですから、「即心即仏」、「非心非仏」の行なんですね。

そしてその「心」を耕す事というのは「坐禅」を行じるということ。

自分が自分を自分し、今を生き抜くということです。

自分の「命」そのものを「心」とし、自分をしっかりと引き受けて生きていく事。です。

それが心を耕すことであり、「即心即仏」、「非心非仏」ということです。

今ある、ここ。

そこは宇宙一杯のここであります。

宇宙一杯の「心」であります。

宇宙一杯の「非心」であります。

先の大梅法常禅師はそのことを理解できたから、真実に気付くことができたんですね。

お読みいただきありがとうございました。

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