有時とは?その意味や使い方について

有時とは

道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。

今回は第⑱弾といたしまして、「有時(うじ)」についてお送りいたします。

筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

目次

有時とは?

有時とは

「有る時」と書いて「有時」

「有時」の「有」は「存在のこと」、そして「時」は「時間」のことを指します。

道元禅師がしるした『正法眼蔵』第二十に『有時の巻』というものがあります。

道元禅師はこの巻の初めに、薬山禅師(やくさんぜんじ)の、

有時高高峰頂立(ある時は高い山頂に立ち)、有時深深海底行(ある時は深い海底をいく)、有時三頭八臂(ある時は頭が三つ、腕が八つの不動明王の姿となり)有時丈六八尺(ある時は仏の姿となる)。

という言葉をひかれております。

この言葉があらわすのは、「時間」がそのまま「高い山頂」でもあり、「時間」がそのまま「海底を行くこと」でもあるということなのです。

また「時間」がそのまま「不動明王」でもあり、「時間」がそのまま「仏」でもあるということなんです。

つまりここでいう「有時(ある時)」が言いたいことは、「時間がそのまま存在である」ということであり、「存在がそのまま時間である」ということなんですね。

「仏の姿」そのものが「時」であったり、「不動明王の姿」そのものが「時」であるということは、あらゆる時々に命が宿っているということなんです。

「あらゆる時々」に命が宿っているということですから、何も特別な「時」だけでなく、「いまのこの時」や、「日常の時々」も例外ではないということですね。

またそれら「すべての時」というのは、「自己」と共にあるわけですよね。

自分が存在しているということは、「すべての時」をこの「自己」が共にしているということなんです。

お腹が空いたとき、車を運転しているとき、いまこうした誰かと会話しているときというのも、すべての時をともにしているんですね。

例えば、自分とは関係ないと思っている世界戦争も、今自分が生きているこの世界で起きていることです。

「すべての時」を我々一人一人は、共にしているんですね。「すべての存在」が我々一人一人と共にあるのです。

もっといえば、この自分が発心し、修行し、成道すれば、全世界も同時に発心し、修行し、成道するのです。

自分が救われれば、世界も同時に救われるんですね。

それもそのはずですね。

世界と我々一人一人は「一つ」なのですから。

このようなことを「有時」というんですね。

道元禅師はこのように「あらゆる存在」がいまの「この時」と一体不離であると説かれております。

この「今」は過去、未来、すべてを含んだ上で成り立つ「今」であり、それらは別々ではないということなのです。

本当に簡単に言ってしまえばこの「今」が「すべて」ということなんですね。

「時が有る今」、発心する。

「時が有る今」、修行をする。

「時が有る今」、成道する。

そうすれば、世界が丸く収まる。

我々の存在は常に「今」にあるのです。

有時の而今

また同じく『正法眼蔵』、「有時」の巻には、

而今の山水は古仏の道現成なり

という言葉がでてきます。

「而今」という言葉がでてきましたが、この「而今」も「いま」という意味です。

つまりここでの意味は、

今、目の前にある山水はかつての祖師方のお命そのものである

ということになります。

「時」がそのまま「存在」であるというのが「有時」ということでしたが、過去も未来も全てを含めたのが「今」であるわけですから、過去に存在しておられた祖師方の命も「今」に続いているということなんですね。

「今」が全てというのは、「今」、この時しかないから全てなのです。

ということは、過去におられた方々も「今」この時に存在しておられるということなんですね。

目の前に流れる川、木の葉。そして私も。

それらの「存在」が「過去」、「未来」、「今」をひっくるめた「お悟りの姿」なのです。

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