はじめまして、お立ち寄り頂きありがとうございます。
当blog「道元禅師の旅zenno-tabi」を運営させて頂く、「harusuke」と申します。
現在世界中で大ブームを引き起こしている「禅」。
当blog「道元禅師の旅zenno-tabi」ではその「禅」を元に、
人が生きるとはどういう事なのか、どのように生きれば人はより良く生きられるのかを考え、旅のように探求していく
ことを「目的」としております。

かのスティーブ・ジョブズも自分の人生に取り入れたこの「禅」コンテンツ。
「禅」に関して今までにたくさんの方々がその正体を模索し、独自の研究をされてきました。
現在世界で最も魅力のあるコンテンツ、それが「禅」です。
同じようにこのblogでもその「禅」に関して参究していくわけですが、そもそも「禅」とはなんなのか?そのヒントは我々の生活にあるのではないかといった部分に着目しながら迫ってみたいと思うんです。
harusukeについて

私、harusukeは以前禅の修行寺で修行をしていた経歴があります。
写真は修行時代のものになります。
そこで経験した全てはとても色濃く、今後私を支える上で掛けがえのない人生の宝となりました。
またそこで掛け替えのない仲間とも出会う事が出来ました。
そんなかけがえのない仲間たちをこのような登場のさせ方にしてしまい、大変申し訳なく思っています。(笑)
庭掃きを代表とする作務や、廻廊掃除、読経、坐禅。
その全てがおろそかにすべきではない、大切な修行であると古参修行僧に叩き込まれました。
200人を超える修行僧に囲まれながらの修行生活。
極寒の地の真冬における3時半起床や、2時間にも及ぶ正座など中にはキツイ経験もしましたが、そこで味わう食事だったり、仲間との会話、たまに食べる事の出来る「チョコレート」。
現代の日常生活からしたら何でも無いことが「宝」なのだなぁと、その修行期間で学ぶことが出来ました。
禅寺で次男坊として生を受ける
私の実家は小さいお寺で、私はその小さなお寺の次男坊として、生まれました。
現在実家のお寺は、両親と兄夫婦で切り盛りしております。
私自身も月に一度ですが実家へ帰省し、週末行われている坐禅会へ出席しております。
父であり師匠でもある住職の講話を聞き、禅の知識を深めると同時に我々が生きる上で一番重要な行いである「坐禅」を実践しております。
そして今後の私の人生のためにその「坐禅」の伝え方を学んでおります。
というのも私は何よりもこの「坐禅」にこそ大切なものが全てが詰まっていると思っており、この坐禅こそが世界を導く、救いの一助となると信じています。
お釈迦さまから始まり、インドのダルマ様、日本の道元禅師までに伝わった、仏法の真髄。「坐禅」。
そんな坐禅を全世界に伝えたいと思っており、それを伝えるために、伝え方を学びたいと思っているんですね。

意気込み
道元禅師は、鎌倉時代の禅僧で、実に多大な影響を当時の人々に与えました。また真実の道、仏道(仏の道)を誰よりも追求し、そして実際に手にし、実践されたお方です。
道元禅師が記された「正法眼蔵」はあまりにも有名で、これまで多くの人を導いてきました。今も世界で最も難解な書として多くの人に親しまれております。
その他に道元禅師がお示しになられたものの中に「只管打坐」という教えがあります。
これは「自己を忘れ、心をも放ち忘れてだひたすらに坐禅を組む。」というものです。
何にもならない「坐禅」を足がしびれるまで組み続ける。その「行」、「只管打坐」こそが真実の行いであるというのです。
なぜ何もならないことをやり続けるのか?そこになんの意味があるのか?実に深いですよね。
我々は普段概念によって支配されています。
そしてその概念によって人と業績を比較したり、容姿を比較したり、財産を比較したり。
そんなことばかり行っています。これら全て人の概念によるものです。
そして苦しめられているのです。
しかし本来の世界、我々が今身をおくこの世界にはそんな我々を苦しめる概念など存在しません。
そこで起こる比較なんてものも存在しないんです。
こっちの人生のほうが素晴らしい、あいつの人生のほうが素晴らしい、そんな比較は決してできないんですね。
今回の「何もならない坐禅に意味があるのか?」こうした問いも概念によって起こされるものです。
例えばいつ、どこで、誰が足を組んでも痛くなる。いつ、どこで、誰であってもカラスの音が自分の耳を震わせる。いつ、どこで、誰であっても匂いを感じることができる。
こうした確かな世界を誰もが生きていて、この世界は全てそのような成り立ちになっております。
概念や納得、そういった次元ではないんですね。この世界のそもそもの成り立ちというのは。
痛いから痛い。腹が減るから腹が減る。これだけなんです。
この世界はどこを切り取っても真実なんです。誰がどこにいても、同じ命を生き、真実いっぱいの命を頂戴しているのです。
なのに比較してしまう。誰かと比較して苦しんでいるんです。
目の前にある事象もそうです。大切な命がそこで展開されている。
壁もコンクリートも、犬のうんちも。美しい花々も。それらは全て1秒ごとに姿を変える。確かな命なのです。確かに存在している仏の命なのです。
そこでは同じように真実の命を展開しており、どっちがいいとか悪いとか、そういった比較はできないのです。
しかしそこに優劣をつけようとする、それが概念です。
本来できないことを無理やり行おうとしている、これが概念なんですね。
命に線引きをしたり、物事に定義をつけたり、比較をしたり。
この世界に生きとし生ける全ての命に優劣はなく、また線引もなく、定義もありません。
先ほどもありましたが、カラスの鳴き声やストーブの音がこうして今こうして私の耳を振るわせるのも、壁を殴って自分の手が痛くなるのも、スクランブル交差点で誰かと方がぶつかり合ってお互い痛い思いをするのも、カラスの鳴き声が自分であって、ストーブの音が自分であって、壁が自分であって、他人が自分だからなのです。
つまり他によって自分の命が起こっているからです。だから他=自分なのです。
全てが1つに重なり合った、仏の命なのです。
世界とはそういう成り立ちなんですね。全てがこうして1つに繋がっているんです。
そこをここからここまでが「俺の命」だと言って線引きを始めたり、これはカラスであると、これはストーブであると定義をつけたりしている。
これが概念です。本来存在しない概念によって本来の物事の尊さが損なわれている。
本来蓋をすることができないことに蓋をしている、蓋をしようとしている。これが今の我々です。
そんな嘆かわしい生活をこれまでずっと続けてきて、これからも続けていくのでしょう。
悲しいばかりです。
しかしそんな議論すらお構いなしに我々が身をおいている世界は真実を現成しております。
目の前の一才は真実のみです。どこを切り取っても真実のみなんです。
そんな真実のみの、この世界のことを「仏」と言います。
どこにいようと、私も含め目の前の一才は真実を展開している。
真実に包まれている。真実に守られているんです。だからどこにいようと、明日をもしれない命だろうと、我々のいくさきは全て救いなのです。
そんな尊い世界で確認できること、存在していることといえば生命の実物です。
壁がそこにあるように。犬がわんと吠えるように。花が風にそよぐように。
生命の実物のみが存在で、真実なのです。この生命の実物以外、この世界にはないんですね。
この世界を作っているもの、それが実物です。世界にはこれしかなく、最も尊いものですね。世界の命、仏の命そのものです。
なので我々もこの生命の実物を頼りにして生きていかなければならない。そこに人の力を注ぎ、人生を捧げなければならない。
そのことを道元禅師は理解されていたんですね。
「坐禅」を組むと足が痛いです。なぜなら生命の実物だからですね。それは概念によって生まれたものではありません。宇宙いっぱいの痛みなのです。この世界の真実であり、確かにこの世界に存在している命そのものです。
その確かな坐禅を私が行うと、確かに私の命が震えます。非常に痛いです。
するとこの私と同時の存在である世界が震えることになります。
私の坐禅が世界、仏を動かし、仏を呼吸させ、仏を生かすことに繋がります。
つまり仏を呼吸させ、生かすことにつながるのです。
だから坐禅は昔から「仏行」と言われます。
仏の行いだからですね。仏の命を鼓動させ、仏に呼吸をさせる行いだからです。
現在、世界中で広まる「禅」。しかしそもそも「禅」という名称も人が、かこつけた概念でしかないんですね。
我々は道元禅師のおすすめになる「只管打坐」を信じて、確かなこの生命の実物を信じ、実践していけばいいのです。
我々は生まれてきたからには生きていかなくちゃならない、私を生かすための生命活動がいわばこの「坐禅」なのです。
必ずやらなければなりません。なぜならやらなければ死んでしまうからです。本来の仏として生きられないからです。
成仏できないからです。
我々は坐禅を行わなければならない。だから一言「只管打坐」なのです。
すみません。冒頭から非常に抹香臭いお話になってしまいました。
道元禅師の教えは宗教、性別、国境を越え全人類に届くものです。

その道元禅師の教えの元、当blog「道元禅師の旅(THE JOURNEY OF DOUGEN)」を運営して参りたいと思います。
道元禅師の「旅」を読者の皆様と一緒に歩んでいくことが楽しみで仕方ありません。
今後共何卒宜しくお願い致します。
以上で簡単なご挨拶とさせて頂きます。
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