道元禅師がしるされた『弁道話』について本記事では解説していきます。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内で暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
弁道話にみる道元禅師の葛藤
本題に入っていく前に、少しだけ仏教の成り立ちについて触れておきたいと思います。
「道元禅師」がお生まれになったの鎌倉時代になります。
それまで特に、平安時代の仏教界というのは、貴族の為の仏教でありました。
要するに「祈祷仏教」であった訳です。
この「祈祷仏教」というのは、仏教の名のもと様々な祈祷をしてみたり、病気平癒を願ったりして仏教を信仰することを指します。
勿論当時の人間としては「仏の力」を借りて、利益を求めたり、病気平癒を願う行為に走ってしまうのは仕方のないことだったろうと思う訳です。
その名残がこの鎌倉時代にも当然残っていたわけですから、当時の人々に道元禅師が「坐禅」をおすすめしたところで中々理解してもらえませんでした。
「命の全体を行じる」という「坐禅」は理解してもらえなかったんです。
そもそも道元禅師は幼少期ながらに、「人は生まれながらに仏であるのに、何故修行をしなければいけないのか。」という疑問を抱え、そこから真の仏法を求めるために中国まで赴きました。
そして師匠の如浄禅師と出会い、「身心脱落」をしたんです。
「身心脱落」というのは「生命そのもの」です。
「生命そのもの」というのは「命の全体」を生きているということで、「脳みそ」だけで人間は生きているんじゃない、脳と体と、「身心一如」で生きているんだと道元禅師は気付かされたんです。
この健康な「身体」があって初めて、「脳みそ」も活躍させてもらってるんだなと。
この「一つものの命」というものを道元禅師は身心脱落の経験を通して気付かされたわけです。
しかし当時の仏教界では、「どうか心願が成就しますように」とか、「戦争で勝ちますように」など全て「自分の思惑」を叶えるために仏教は利用され、信仰されていたのです。
そういう現世利益ばかり願った、ご利益信仰であったわけなんですね。
ただここで断っておきたいのは、決して現世利益を否定してるわけじゃないのです。
そこは間違ってほしくはないんです。
つまり現世利益は先程の人間の「思い」によるものなので、それは尊く、当然尊重されてしかるべきものであるのです。
しかし、本当の「仏教」というのは「身心一如」です。
「脳」のそればかりではなくて、「全体を行じる」ということを第一に抑えていかなければ、それは単なる現世利益の新興宗教と変わりがありません。
そういう自分の「思惑」を願うのであれば、他の「宗教」でも何でもよいわけです。
別にこの仏祖正伝の仏法である、「坐禅」を行じる必要などありません。
しかし当然、当時の仏教界にこのような道元禅師の考えは浸透するはずがありませんでした。
「弁道話」にみる道元禅師の嘆き
本当に当時の方々にこの「道元禅師」の考えは浸透しなかったんですね。
「身心脱落」を経て、中国から日本に戻ってくるわけですが何よりも理解してもらえなかった。
当時のその嘆きが『弁道話』という道元禅師がしるした書物の中に出てまいります。
そもそもこの『弁道話』とは、道元禅師の主著でもある『正法眼蔵』における前説のようなお示しで、高祖様が中国からお戻りになって、さあ今から真実の仏法を日本のみんなに広めようとする際、そこまでに至る様々な葛藤をしるしたものです。
せっかくなのでその内容を少しご紹介させていただきます。
道元禅師は修行を志し、14歳で出家をし、その後比叡山で修行をされます。
しかし、どうも納得がいかない。
真実の仏法を求めたい。
そんな折、京都の「建仁寺」に禅宗というのものを栄西禅師が伝えられたという噂を聞き、その建仁寺まで赴きます。
しかし残念ながら栄西禅師は道元禅師がたずねられる前に、既にお亡くなりになってしまっておりましたので、その一番弟子である「明全和尚」のもとで禅の勉強をしたわけです。
そこで9年間「明全和尚」の側について仏法の、禅宗のいろはを学んだんですね。
そしてその間にここで言う「臨済宗の家風」というものを学んだという内容です。
そこでしっかりと「臨済宗」の家風を聞いたというわけなんですね。
一生参学の大事ここにおわりぬ。
こちらも『弁道話』の一節になりますが、その後本物の師匠と出会う為、道元禅師は大宋国の「中国」へ修行へ赴くんですね。
そして中国に上陸してからは浙江省の五山十刹を訪ね歩いたり、禅宗の教えを色々聞いて回るんです。
しかしなかなか「この人こそ!」という人に出会えません。
5年間の中国修行期間のうち、その4年間は「正師」を探し求めるのに費やしたんです。
そして最後の1年でやっと「天童山の如浄禅師」に出会うことが出来、そこで「身心脱落」をすることができたんです。
とこの『弁道話』には出てきますが、これは「これで、一生の修行が全て終わってしまった。」という意味ではないんですね。
「坐禅」を「目的地に達する船」のように考えて、「ここまで来ることが出来たので目的は達せられた」という意味ではないのです。
むしろこれを機にますます、道元禅師は「坐禅」を盛んに行じられるようになるんですね。
自分の方向性がしっかり定まったんです。
真の仏法というのは、「現世利益」を願ったり、「自分の思い」に振り回された教えじゃなく、「全体を行じる」教えのことなんだなと、「如浄禅師」に一生の参学の大事を教えられるわけです。
日本仏教の歴史上、道元禅師のこの気付きがすごいことでした。
どういうことか?
我々が持つ「坐禅」に対するイメージというのは、すっきりする爽やかなイメージがありますよね。
坐禅を組めば、無になれるだとか、悟りをひらけるだとか、爽やかな良い気持ちになれるというイメージを持っているはずです。
そういうスッキリ爽やかな気持ちになれるのが「悟り」のように感じてしまうんです。
しかし「坐禅」の実際はそうではありません。
「坐禅は生命の全体を行じること」なんです。
それまで道元禅師自身も人間の「喜怒哀楽」を追求することが坐禅の目的なのかなと思っていたのかもしれません。
しかし、天童山で如浄禅師に出会ってですね、生命の全体を学ぶことを如浄禅師からはっきり教えてもらって、一生の参学の大事ここにおわりぬという所を気付くことができました。
「仏法の正体」に気付くことができたんです。
そのような意味なんですね。
この、
というのは。
それからというもの、ますます「坐禅」を盛んに行じることが出来るようなるんです。
「坐禅」は目的達成のための「船や筏」のようではなく、「全体そのもの」ということに気付いたからです。
「坐禅」こそが命の全体を行じる生き方なんだなとはっきり知る事ができたんです。
それが分かって日本に安心して帰ってくることができた。
やりとりなしが、正伝の仏法の出発点
そしてそんな折に、
「我、叢林(そうりん)を経ること多からず、空手にして郷に帰る。眼横鼻直にして他に満せられず。」
という有名な言葉を道元禅師は残されるんです。
当時、弘法大師空海の「生来目録(しょうらいもくろく)」という書物もそうでありましたが、先進国を代表する中国にいったらお土産として何かしらの書物なり、手土産を日本に持って帰るのが習わしでありました。
そして旅の記録を目録にして、天皇にお見せするんですね。
私はこんなものを持ってきましたという風に天皇様にお見せするんです。
中国に渡られた祖師方はみな、何かしらの書物を携えて「生来目録」というのを残しております。
しかし、道元禅師は「空手にして郷に帰る。」とあるように中国から手ぶらで帰ってきたんですね。
なんにも持ちものはなく、手ぶらで帰ってきた。
せっかく中国行ってきたのですから、何か持ってくればいいのに、なにも持ってこなかった。
何故道元禅師は「空手」で帰ってきたのでしょうか?
その答えを得るヒントとして「大自然」を見てみましょう。
その道端に咲いている花は誰かを喜ばせようと思って咲いている訳ではありません。
人間の思惑など通用しない命が大自然の正体であり、仏法の正体なんです。
その何もやりとりがない所を仏法の出発点にしようと考えたんです。
大自然の教えこそ仏法だからです。
だから道元禅師は「空手」で帰って来たんですね。
天童山の如浄禅師の元で「身心脱落」をしたのに、手ぶらで帰ってきた道元禅師。
長い修行期間も無駄なように思えてきます。
しかし大自然とは「なんにも足さない。なんにも減らない。」。
中国へ行く前も行った後も何も変わらず「ありのまま」だった訳です。
つまり「身心脱落」をする前もしたあとも「ありのまま。」
「ありのままを持って帰ってきた」というべきでしょうか。
このような経緯があるんです。
終わりに
さて今回は「弁道話」を例に道元禅師の葛藤と修行経験を文章でおつたえしました。
大自然そのものが仏法であります。
お読みいただきありがとうございました。
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