今『雑草』に関して辞書を引くと、
とあります。ひどいものです。
人間からすればその草は雑草か、雑草でないか。或いはそれは部屋に飾ることのできる綺麗な花か、そうじゃないか。せめて食べられるものか、それとも食べられないのかという比較が大切で、そこで人間たちの役に立たないものは名前すら覚えてもらえない。
雑草として、としか覚えてもらえない草花がたくさんあります。
しかし「雑草」という名前の草はないように、あらゆる草花にはきちんとした名前があって、そこでは真実の姿を現成しております。
仮に名前などなくてもそれは真実のお姿です。役に立つ、立たないというのは人間界だけに通用する話なのです。大自然においては、むしろ「人間の役に立つ」が逆に全く役に立たなかったりするわけです。
しかし人間によってむしり取られたり、除草剤をかけられたりする。
人間が食べられないものだとしても、虫たちの栄養になっていたり、小さい動物の棲家になっていたり、何かしらの役には立っているものです。
また仮に役に立っていなかったとしても、毎年季節が巡ればきちんと顔をだす。咲いては枯れていく。一秒後ごとに朽ちていく。
彼らは嘘偽りなく真実の姿を表していて、真実に生きております。
彼らも私たちと同じこの世界の一員なのです。この仏の世界の住人です。
「草花」だけではありません。
我々の眼の前に展開しているあらゆる物事に対してもこれは言える事です。
もちろん私たちもです。一秒ごとに老化しています。ともすると悲しいことも、しかし実はとても尊い。それは仏の、真実の、悟りの姿だからです。
この仏の世界の一員として「真実」を表しているからです。仏に忠実だからです。常に仏と共にあるからです。
そんな悟りのみに囲まれたこの世界。この世界は悟りの世界なのです。仏のみの世界なのです。
第一階層の世界、全てが仏っきり、生きっきり、死にっきり、反対に無仏法の世界なのです。
またそんな世界と私は同一のわけです。真冬のバケツの中に手を突っ込むことで、冷たさを通り過ぎ、痛さを感じるように、宇宙がそのまま自己だから、自己がそのまま宇宙だからです。
全て自己の展開なのです。
ここは仏っきり、自分っきりの世界なのです。
皆が真実の姿をしている。仏の姿をしている。
そこに住まう我々も雑草も壁もあらゆるものも、仏の一員として生きている。生活している。
これを「一つ」として、あるいは「仏」として繋がっていると言うのです。



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