道元禅師のお言葉に「仏道をならうというは、自己をならうなり」というものがあります。
簡単に説明すると、
仏道を学ぶことを、他人事として捉えるのではなく、常に自らのこととして学ぶ必要があるとのお示しです。ただし、自ら自身へのとらわれは手放す必要があります。そうすれば、この世界全体を貫く仏道の道理のままに生きることになります。出典:曹洞禅NET
要するに自己に親しむこと。それが全てであるということです。全ての道であり、全ての解決であり、全ての答えであり、救いであり、目的であるということです。
ここではいつどこでも花は枯れます。また私たちにおいてもいつどこでも肌をつねれば痛い。足を組めば痛い。こうした命を生きています。紛れもなく生きている。
ということは花は愚か、この自己も、この宇宙いっぱいの命をいただいているわけです。そこには上も下もありません。この自己が常にこの世界の真実の命をいっぱいにいただいているわけです。
常に誰もが宇宙いっぱいのこの世界の真実をいただいている。花も私もこの世界の「子」、「仏の子」です。仏弟子です。

肌をつねれば痛い。足が痛い。それらは紛れもなく痛い。自己とはそういった命をいただいている。この世界の正体をいただいている。現している。
この世界の真実、それが今ここの自己です。
自己こそがこの世界の真実、この世界の正体なんです。
今ここには、その自己が展開している。ということは今ここには真実が展開しています。全てが展開している。自己こそが全てです。全ての答えです。
それは花は枯れ、足を組めば痛い、ということです。
これがこの世界の真実です。この世界にこれ以上のものはないということです。これ以上ありがたいものはないということです。
そんな自己が常に共にある。会社で苦しい時も、旅先で楽しい時も。絶望した時も、あるいは喜ばしい時も。
常にその自己がある。自己こそがこの世界の「正体」です。上も下もないこの世界、全てが詰まっています。道元禅師のお言葉で言えば「万法」が詰まっている。
我々がすべきこと、それはその自己に親しむことです。自己を生きることです。
我々はこの世界の住人です。その世界の真実といえば、足を組めば痛いということです。足を組むことがこの世界を真実に生きるということです。足を組むことがこの世界の本当の行です。我々の本来の行です。
だから自己に親しむのです。親しまなければならないのです。
あるいはこの世界どこに行っても肌をつねれば痛い。そういった真実が展開していると自覚すること。今、ここ、この自己に宇宙いっぱいの真実が展開していることに気づき生きていくこと。この世界の全てがそういった命を展開していることに気づき生きていくことです。
そう思うとありがたく思えてきます。全てが輝いて見えてきます。どこにいても生き切ることができる、死に切ることができます。
また死してもなお、そこには死んだ後の事実があるはずです。つまりそこには真実があるわけです。仏の真実があるわけです。
鳥の鳴き声が自分の耳を震わせ自分の命を起こすように、鳥が私です。世界が私です。
我々はそれらと共にある。つまり生き続けるということです。我々が死ねないとはこのこと、まだ生まれてもいないということはこのことです。
我々は生きっぱなし、死にっぱなしとはこのことです。そこでは常に事実があるから。つまり仏があるから。その仏と我々は共にあるからです。我々はその仏と一体だからです。
話が脱線しましたが、迷ったら先ほどのことを思い出してみてください。世界どこに行っても肌をつねれば痛い。そういった真実が常に展開しているとということを思い出してみてください。この世界は真実のみだと自覚するのです。
それでも迷ったら足を組んでみてください。肌をつねってみてください。あなたは紛れもなく真実の命を生きている。上も下もない宇宙いっぱいの命を常にいただいている。この世界の正体をいただいている。この世界の真実をいただいている。この世界の全てをいただいている。
迷ったら自己に親しむ。自己に帰る。自己に生きる。
自己に生きること、それが真実に生きること、つまり仏道に生きることです。我々のやるべきことです。
あるいはそのように気づかされて生きていくこと、それが仏道です。
世界の真実は常にそこにあります。常に共にあります。全ての安心も、夢も、やるべきこともそこにあります。焦らなくていい。今、ここ、この自己に親しめばいいのです。
コメント