「人間同士の評価」が必ずしも大切だということはありません。
人に評価されること、それはそれでいいのだけれど、それが全てではない。そこで評価されることに囚われてはいけないということです。
ここは仏の世界で、肝心の私がその「仏」そのものだからです。
人間の生き方と仏の生き方
「人間」としての生き方と「仏」としての生き方とがあります。両者の生き方は相容ることができません。
人間は頭を使う生き物で、いうならばその頭の中を重視する生き物だからです。
例えば「納得」。
人を納得させる人物。人から納得される人物。こうした人物が世でいう、価値のある人間です。優秀な人物です。
しかしその納得は人間同士に通用するもので、大自然にはこの納得がありません。存在しておりません。
またその大自然に生きている、生かされているのが我々なのです。
双方の生き方というのはそもそもベクトルが違うのです。
文明を作る。便利な世の中を作る。功績を上げた。殊勲を上げた。有名になった。お金を稼いだ。
素晴らしいことです。多くの人に認められたということですから。ただ人間的に評価されるとはこういうことですが、しかしこれらはあくまでも人間の間だけの話です。納得の度合いが評価されたということです。
そのような納得は本来の世界には存在していないんですね。議論の余地がないのです。
バーチャルの世界で鎬を削っている。躍起になっている。命を削っている。これが人間のやっていることなのです。
というのも、我々は納得なしに腹が減り、納得なしに年をとります。納得なしに鳥の声や、近所の子供の声が聞こえます。納得なしに足を組めば痛い。あるいは納得なしに地震が起こる。雨が降る。雷が鳴る。この世界に納得は何一つないのです。納得というのはただの説明です。
例えば我々は「年を取るのは細胞の酸化や糖化、遺伝子の傷、免疫力が低下するからだ」というように説明をすることができます。また「雨が降るのは水蒸気が冷やされて水滴になり、それが集まって大きくなり、重力で地上に落ちてくるからだ」と。こうした納得をすることができます。
しかしそれは単なる説明です。そもそもなぜ免疫力が低下するのか?ということです。なぜ水蒸気が冷やされると水滴になるのか?ということです。なぜ感動すると涙が流れるのか?ということです。
それらは決して説明できません。解明できません。
人間は自分たちの都合の良いように、その事象を解釈します。ちょうど良い所で納得をします。
またものの見事に、あたかもそれが真実であるかのように説明します。
しかし「年を取るのは細胞の酸化や糖化、遺伝子の傷、免疫力が低下するからだ」と、それっぽいことを言っても、それを止めることはできない。大自然の動きを止めることはできません。
納得と、実際の物事とはなんの関わりもないのです。
「俺が見た」と人間は言います。あるいは「俺が臭った」と。あるいは「俺はこう思った」と。
しかし「俺」がみる前に、それはすでに見えていたのです。俺が臭う前にそれはすでに臭っていたのです。思う前に思っていたのです。
この世界には俺がないんですね。
全ては大自然の説明のつかない、納得のつかない働きによって起こされており、決してここには納得がないのです。
この世界は何一つ納得などないということ。人の概念が関与していないということ。それはよく考えればわかります。
この世界の実際の物事に対して納得や説明が一歳通用しないのだということがよくわかります。
またそれらは延々と平行線を辿るだけで、本来の世界には関わってこないのだということがよくわかります。
納得や説明というのは事が起きたことに対しての後付けに過ぎないんですね。そのようなものは実物には一歳関与していないんですね。大自然には一歳関係していないのです。
納得というのは、事の説明に過ぎないのです。
人間はこのような偉大な世界に対して勝負をしかけます。何事も説明や納得をしないと気が済まない我々ですが、その相手を今一度よく考えるべきなのです。
勝てない相手と戦おうとしている。あるいは解明できないものを解明しようとしており、それはなんの意味もなさないものなのです。無駄なことをしている。それが納得や説明です。
ひいては人間活動なのかもしれません。
我々は仏
この世界は仏、そこに住まう我々も仏。全てが仏なのです。例えば鳥の声が自分の耳を震わせる。そしてそこで聞こえるという「命」が生じる。つまり鳥が自分なのです。
あるいは呼吸もそうです。呼吸には酸素が必要ですが、その酸素は無論この自分ではない場所で生成されていて、こうして呼吸ができる。自分が寝ている間でも、この体がきちんと休まず呼吸をし続けてくれているから生きることができる。
自分には必ず他人が必要なんですね。他人の命が自分の命なのです。他人が自分なのです。
こういう成り立ちをしているからです。全てが1つに溶け合っているわけです。全てが1つにつながっている。
従って「仏」ともつながっている。だから我々は仏なのです。
なので「人間」というのがそもそも存在していないのです。だから人間からの評価、あるいは人間界の話というのは、実は本質ではないのです。
人間の評価というのも実は存在していないものだということです。それは存在していないものによる、存在していないやり取りなのです。
そんなものに囚われる必要はないということですね。そのせいで苦しむ必要は全くないということなのです。
我々は本来仏です。我々が生きるというのは仏が生きるということです。仏として生きるということです。
仏としての務めを果たし、成仏する。それが我々の本当の目的です。
仏としての役目、それが「足を組む」ということです。
なぜならこの仏の世界の正体、それがこの足の痛みだからです。
この世界の正体、この世界の全てがこの足の痛みだからです。
なので坐禅なんです。これが坐禅が仏行と呼ばれる理由なのです。
仏である我々が行うべきことは仏行を行うということです。仏として生きるということです。仏道を歩むということです。
坐禅を組むことが、本当の我々の行いです。坐禅の世界が本当の世界の場所です。
そこで生きること、そこにい続けること。それがこの世界に生きる我々の本来目指すことです。
なるべく坐禅をする、仏の評価を気にすること
もちろん我々は人間です。どうしてもそこでは納得や説明、評価というものが大切になってきます。
実際に生きながらえるためにはそういったものが必要になってきてしまっているからです。
しかしここで言いたいのはそれは本来ではないということです。
誰にも評価されない人生。無関係というのも決して悪くないということです。
むしろその方が仏である我々としては正しい生き方だということです。人に評価されないということは、納得とは程遠いということだからです。しかしそれは真実の見方をすれば正しいことなのです。人に評価されなくてもむしろそれがいいかもしれないということです。
「飛ぶ鳥跡を残さず。」できることなら何も残さずに死んでいくこと。これが望ましいわけです。なぜならこれが大自然のあり方で、仏のあり方だからです。仏である我々はそこを本来であれば目指すべきだからです。
良寛さんの銅像が建てられたといいます。良寛さんゆかりの地である新潟県を中心に数多く建立されているといいます。
人間に評価されたということですね。もちろんそれは無駄ではありません。良寛さんは素晴らしいお方です。大自然の行き方をされた方です。むしろその生き方を評価しようという思いで行われたことなら、大変意義のあることなのかもしれない。
しかし仮にそんなものを建てなくても良寛さんの評価は変わりません。そんな銅像は作らなくてもいいのです。評価をしたり、評価を受けるということ自体が、本来存在しない人間の営為であるということです。
この記事で言いたいのは、我々の本当の評価というのはむしろ人間に評価されないことが評価だということを念頭に置くことが大切だということです。
大自然に評価される。猿や、動物たちに評価される生き方。それが仏に評価されるということです。本当に評価されるということです。我々の本来の生き方として正しいということです。
そしてそのためにも大自然の行動、この世界の行動をとることです。仏の行動をとるということです。この世界の真実と常にともに生きていくということです。
肌をつねれば痛い。足をくめば痛い。こうしたことがこの世界の正体です。それを行じるということです。
「足を組むこと」。これが我々の本当の行動です。大自然の行動です。それを行うことが我々の本当の行動、いわば「呼吸」です。本来の営為です。それをやるために生まれてきた。またそれをやるために生きていくわけです。
そのおかげでひいては成仏ができるわけです。一歳人間の評価は気にしなくていいんですね。
我々は人として生きるのではありません。仏として生きるのです。人に評価されるために生きるのではありません。仏に評価されるために生きるのです。
そこで仮に誰にも気付かれず、人に評価もされす、誰からも取り上げられずに死んでいこうと、これが実は誠に尊いということです。
ただ坐って生きる。ただ坐って死ぬ。それが誠に尊いということです。
これが本当の評価されるべき生き方です。これができるかどうかが本当にその人物の能力であり、仏としての能力です。勇者としての素質です。本来我々が身につけるべき能力です。
それを心得て生きていくことが我々の正しい生き方です。本当に生きるということです。
SNSをやっているのであれば、フォロワーやいいねの数を気にしなくていい。
自分の生き方を本来存在しない物差しに収めようとする、そんなつまらない生き方をしなくていいのです。
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