「概念化」とは?「概念」の危うさと正しい向き合い方について

我々「人間」は概念を保有する生き物です。しかしそれは果たしてどういうことなのか、本質的になんなのか、どういったことが言えるのについてお伝えしていきます。

これまで考えもしなかったという方も中にはいるでしょう。この記事はあなたの「今」にも密接に関係している話です。是非読み進めて頂ければと思います。

目次

我々が生きるこの世界

まず前置きとしてこの世界に「私」はありません。それはこの「私」においては、私という個体としてではなく、1つの命として成り立っているということです。

例えば今こうしている間に鳥の鳴き声が聞こえたり、排ガスが臭ってくるのは、両者の間に、命の境界線が一歳ないからです。もし仮に「私という命」という「線引き」があったとしたら、それは聞こえてくるはずもないし、臭ってくるはずがないのです。

また今この「俺」を生かしている活動の1つに「呼吸」があり、その呼吸に関しては酸素がないとできないわけですが、今こうやって無条件で行っているこの呼吸において、その元となる酸素というのも、市外、県外、国外、そう言った不特定の場所から来たものがカオス的に合わさって、またそれが鼻腔に運ばれてくるから呼吸ができるわけです。

もしこの世界に「俺の命」という限定的なものがあるとすれば、我々は即座に窒息死してしまうはずです。しかしそうはならないわけです。我々はどこにいてもきちんと聞こえ、きちんと匂い、きちんと呼吸ができるのです。

縦横無尽に自分の命が展開している。呼吸1つとっても、ここからここまでが俺の呼吸という限定ができないわけですね。全世界に溶け合う自分。全世界と一体の自分。これが自分という存在のわけです。

要するに我々の命というのはそういった「つながり」だということ。ここでは全てが1つとして成り立っている。1つに溶け合っているということです。

また例えば我々がよく食しているあの「お米」というのは、堆肥の存在、日光の存在、水の存在、虫たちの存在によって、あのような形になるわけです。つまり「お米」というのは太陽でもあるわけで、虫でもあるわけなのです。

この「人間」に関しても同じことが言えるでしょう。

あるいは春となれば、暖かくもあり、涼しくもある微妙な気候を寸分狂わずに直接肌で感じることができるわけですが、それはまさに万法である、真実と私とが「同一」、あるいは「同時」だからなのです。

この世界においては「全て」という存在、これしかないのです。これだけなのです。

道元禅師は「正法眼蔵生死の巻」において「この生死はすなわち仏の御命なり」と述べられております。

ここでは「私が思う」ということがそもそも成り立たないわけです。それはここには「私」という特定のものが存在しないからです。あるいはここには「思う」という特定の行為も存在しないからです。

全てが一つなので、そこでいうなら、思いっぱなし、私っぱなしだということです。全てが「思う」ということであり、「私」だということです。

全体の全体のみですから、2つに分かれません。ここではそれを概念だとか、思うだとか、そういう風に分けられないということです。行く道がない、それを待っている対象もない。つまり掴めないものだということです。もしくは常に掴んでいるものだということです。それは1つもの。全体の全体、あるいは自は他の動き、自の命は、他の命だということです。

大自然っぱなし。真実っぱなし。俺っぱなし。お前っぱなしということです。ここはいずれか、ただそれだけというわけです。もしくは全体の全体だということ。全体としての命、全体として常に流れ続けている、つながり続けている。そこに留まっていない。「それ」が「こう」だと言えるものはないということです。

無限定。あるいはこの現象を「空」だと言ったりするわけです。

デカルトの言う「我思う故に我あり」とは全く異なる考え方です。区切りなどないのです。特定がないのです。自分などないのです。「我」ということも、「思う」ということも、どちらも存在できないものなのです。

ただ、ただ真実、ただただ、それのみ。全体の全体のみ。

まず、この世界の成り立ちとしてこのような事実があるわけです。

概念とは?

ここで一旦wikipediaを覗いてみたいと思います。

wikipediaで今回のテーマでもある「概念」について調べると、以下のような注釈が出て参ります。

人が認知した事象に対して、抽象化、普遍化し、思考の基礎となる基本的な形態となるように、思考作用によって意味づけられたもの。wikipediaより参照

ふむ。分かるような、分からないような話ですね。

繰り返しになりますが、ここは本来一辺倒の世界、ここからここまでというものがない世界、特定のものが生まれない世界です。

全体の全体。私や、概念もそこに含まれるわけですから、あるいはそれきりのわけですから、それはあるといえば、あるし、ないといえばないものなのです。

我々はどうしてもその発達した脳によって、あえてそのようにカテゴリーを作り出してしまいます。例えばこれはチョコレート、これは財布、といった具合で、区切りをつけているもの、つけやすくしているもの、それが先ほどの「概念」です。

もちろんそれも「全体の全体」。全体の全体に含まれる話です。

しかしであるとすれば、それはそれきり。概念きりです。全体概念世界ということで、あるといえばあるし、ないといえばないものなのです。あるいはその「概念」に対して、どうこうできる媒体が存在しないので、どうこうできる話ではないということです。

概念とは言葉によるもの

時にそのようにさせているのは「言葉」の影響も大きいということです。

元々我々人間は言葉を持っておりませんでした。先祖であるホモサピエンスは外敵から身を守るために声を発した。それが概念の始まりであり、またその言葉を駆使して仲間に敵の位置や、餌のありかなどを共有することができるようになりました。

そしてそれは人間だけが扱うことを許されており、またとても便利なものです。今はこの概念や言葉のおかげで、こうした便利な社会を形成するまでにいたり、生物界で頂点に君臨するまでに至ったのです。

なので概念とは、言い方を変えれば「言葉」だということですね。

例えば「りんご」という言葉を覚えることによって、我々はそれをりんごだと認識できるわけです。

そうやって、お互いにその共通の言葉で、共通の認識を持ち、コミュニケーションを図ることができていく。要するに言葉によって生まれる認識のやり取りが「概念」なのです。

そもそも言葉がなければ我々はそれが何なのかわかりません。認識ができないのです。概念すら持つことができないのです。

例えば生まれたばかりの赤ん坊は、それを「りんご」だと認識できないといったことです。赤ちゃんにはりんごがありません。天罰がありません。罪がありません。迷いがありません。悟りがありません。まさに全体の全体なのです。

そこから言葉を覚えて、ようやくそれが「りんご」だと認識できるようになる。そしてそのりんご取って!とか、そのりんご美味しそう!とか、こういったコミュニケーションを取れるようになるわけですね。

言葉によって概念は生み出され、その言葉によってコミュニケーションがなされるようになります。この言葉による概念というのは、大変便利な道具です。

しかしそれは全体の全体を切り離す作業ということです。同時に天罰や、罪、迷いや、悟りも生じてくるわけです。

また繰り返しになりますが、ここはそもそも「全体の全体」です。そのようなことがこの世界であり、全てであり、また私なのです。全てが1つなのです。それっきりなのです。あるものでもないし、ないものでもないのです。あるいはそれはただのつながりですから、それは他なのです。思うということは実は思わされているのです。相手が私なのです。言葉や思量、そのものが私なのです。

このように思うだとか、このように思ったとかではなく、それは思わされてしまったもの、世界のつながりだということです。全体が全体しているだけのことなのです。

それが地盤であり、また基本であるため、この「言葉による概念」に支配されること、それをあたかも自分のもののようにしたり、それで人を傷つけたりするようなことはしてはいけません。

ここでは全てが1つだからです。概念や言葉というのも「それ」だからです。全体の全体だからです。真実だからです。それをそのままにしておくことが重要で、しかし何があっても全体のわけですから、畢竟それしかできないわけです。

なのにそれを引き離そうとしたり、追ったり、人の手を加えたり、自分のものだと勘違いしてしまう。そこが人間の最も重大な問題であり、課題なのです。我々はできないことをしているのです。存在していないことをただやり続けているのです。

あるいは先ほどもご紹介したように、「お米」というのは、堆肥の存在、日光の存在、水の存在、虫たちの存在によって、あのような形になるわけです。つまり「お米」というのは太陽でもあるわけで、虫でもあるわけなのです。

そのような状態で、そもそも「それがこれだ」といい当たるのは不可能なのです。

あるいはその「りんご」と名付けたものをよく観察すると、1秒ごとに姿を変えているのが変えているのがわかります。1秒前のりんごと、1秒後のりんごとでは確実に1秒後のりんごの方が何かしらの養分を失っているわけです。

常に言い当てることなどできないのが、この世界の物事だということです。

もちろん「何かを思う」という行為も人間における生命の実物です。仮に人間だけができる行為だとしても、それは真実の行いです。

そこで思うことは自由です。それは全体の全体の活動。他によって思わされたもので、むしろ防ぎようのないものだからです。常に全体の全体のみのこの世界で、そのように思うことも、どのように思うことも、そこから離れているわけではありません。離れてしまえるものでもありません。離すことができないものです。

つまり思うことがいけないのではなく、全体の全体において、それを引き離そうとすること、自分が思ったとやったり、その思わされた一瞬の出来事を追いかけてしまうことがいけないことなのです。それは「何にもないこと」、「架空的」な、ただの「骨折り損」だからです。

確かに物事に対し、名前をつけたり、限定化していくこと。これが概念であり、言葉の便利な点です。それによって弊害も生まれるわけですが、こうして今も便利な生活をすることができるようになりました。

しかし大元は常に全体の全体。

離れないものを離そうとしている、あるいはできないことをしようとしているのが我々で、あるいはここが人間的な「概念」、勘違いされている「概念」のことなのです。

五感全てを駆使して、鐘の音を聞いている

これまで述べてきたように、この世界とは全体です。ここには「俺」がありません。あるいは全てが「俺」です。

かの良寛様は、人に借りたもの、あるいはそこら辺に落ちている石ころでも、どんなものにでも「おらがもの」と書いてしまったと言います。

仏教はこの「絶対的な事実」を決して無視しません。「諸法無我」という有名な言葉にもあるとおり、またこの教えこそ仏教において最も重大な教えのわけですが、ここは全体の全体なのです。この世界に俺なんてものは存在しないのです。

ここで少し、私の生家であり、実家のお寺のお話をさせていただきます。

9月のお彼岸の頃というのは「金木犀の花」のかおりが漂う時期であります。

そのお彼岸中お寺では、「毎朝6時」から鐘を7つ撞きます。私も何度か手伝いとしてその時期に鐘を撞くことがありました。

時間が経つと徐々に朝日がのぼってきて、「目」でみる視界も段々明るくなってきます。

そしていざ「鐘」を撞き始めるころ、「鼻」では「金木犀の花」のかおりを嗅いで、「耳」では鐘の音を聞いているというような状況になっていることに気づきます。

人間は「五感」を通してこのような状態を無意識に行じています。

この事を「人に説明する際」あなたならどのように説明しますか?

恐らく、

  1. 耳で鐘の音を聞き
  2. 鼻で木犀の香りを嗅いで
  3. 目で、段々白じんでくるこの世界を見ている

という風にその時の状況を順を追って、またセグメントしてから説明するはずです。

このように物事を一つ一つ脳の中で分けて、その事を「概念」として他人にイメージを持たせる事で初めて「説明」がつきます。

しかし実際は、「耳」で「鐘」の音を聞いている間に「鼻」や、「目」が休んでいるかというとそうではありません。

常に五感を巡らせて、五感の全ての力を発揮して「鐘の音を聞いている。」あるいは常に五感を巡らせて、五感の全ての力を発揮して「金木犀の花」のかおりを嗅いでいる。

五感の全てを働かせて、皮膚感覚も全部をひっくるめて、夜明けのこの白じんでくる世界を経験している。

「耳」でも「鐘」の音を聞いているのです。「鼻」でも「鐘」の音を聞いているんですね。つまり全てが「聞くこと」であり、全てが「見ること」なのです。

日常生活においては、

  • 全ての感覚を駆使し「朝ご飯」を食べている。
  • 全生命を駆使し、「お手洗い」をしている。
  • 宇宙全体を巻き込んで「スマートフォン」をいじっている。

ということです。

このように実際の物事というのは区別できないんですね。常に無限定なのです。限定できないものはどんなに頑張っても限定はできません。認識でも捉えられないということなんです。

ただ「他人に説明したり」、「文章化したり」しようとすると、「目で白じんでくる世界を見て、耳で鐘音を聴き、鼻で金木犀の花のかおりを嗅いでいる」という以外表現の仕様がないから行うわけです。そしていつしかそういったことが定説となってしまった。

同時にその過度な「線引き」によって始終して、苦しんでいるのが我々現在の「日常生活」であります。

「頭」で考えて、「線引き」をして、「分別」をして、「物を分けて」、これは「あなたのもの、これは私のもの」ということで社会というのは成り立っている訳ですが、この線引きというのは事実ではなく、私の言葉で言えば「人としての概念」でしかありません。「実際の命」においては何ひとつ線引きはできないわけですね。また本来の「概念」とも違う物です。

繰り返しになりますが、世界は全体の全体です。無限定です。限定不可です。線引き不可なのです。「人間的な概念」と実際の世界が交わることはありません。常に平行線を辿ってしまうのです。

「実際の世界」というのは「全体」です。そこを本来の概念、つまり生命の実物としての「思量」であれば、それは全体の全体で、あるいは思わされていること、この世界と同時のものです。それは決して否定できるものではなく、世界の真実です。これであればいいのです。本来の概念とはこのことなのです。追わない、手をつけない。実物としての概念。人の手垢がつく以前の概念。

このような一連のことを有名な言葉で「不思量底を思量せよ」というわけです。

まさに「坐禅」が「不思量底を思量している」のです。そこでは無限定の、この世界の真実がただ真実しているからです。例えば概念に関しても、あらゆるものが頭に生じてきます。しかし思ったら思いっぱなし、そこでは本来の概念のあり方もなされるわけです。

この「坐禅」が仏行と言われる所以で、今、ここで、自分の意思で「坐禅を」すること。これぞ全体の全体なのです。

本当の概念化とは

何度も言うようですが「思う」というのは、これは「自分」がやっているわけではありません。

ここは全体の全体のわけで、「私が思う」ということも含めてここで起きることは全て全体の全体なのです。大自然の命なのです。

この「思う」という行為は、自分ではどうすることもできない、やめようと思ってもやめられない、れっきとした

「生命活動」であり、「生命の実物」

なのです。このままであればいいのです。この生命の実物としてなら、人間の手垢がつく前ならいいのです。

先日私は電車に乗ろうとしました。東京は、大森駅から新橋駅に向かうために「京浜東北線」に乗ろうと思ったんです。

しかし予定していた電車がどうやら前の駅で何某のハプニングにあったらしく、全く到着しません。駅のホームは気が付けば人でごった返してしまい、そこら中から「舌打ち」が聞こえてくるような始末です。

だんだんと私もイライラしてきて、なぜこのようなことになっているのか、原因はなんなのか、またこのままでは予定の時間に間に合わないのではないか。そのような焦りや、怒り、不安の思いが巡りました。

大体20分後くらいでしょうか、ようやく電車が到着しました。

さらにその際、我先にと思ったのが仇となり、つまずいてしまい、転倒してしまいました。

とても恥ずかしい思いをしました。同時に損した気分にもなりました。

そもそも電車が遅れなければそのような思いを抱くことも、転倒することもなかったわけです。

もちろん自分の短気で、せっかちな性格のせいだと言われればそれまでなのですが、しかしわたしにしてみれば、そうさせたのは紛れもなく電車の遅延です。またその原因です。

誰が犯人だ、なぜこうなった。

しばらくはそうした、他責の思いが巡りました。怒りに支配されました。

たった朝の数十分間の間にもかかわらず私は、非常に多くのことを思い、そして行動をしたわけです。

しかし今思うと、それはまるで自然災害のようなものだったのです。どうすることもできないことだったのです。

例えば私がその時間のその電車に乗らないといけなかった理由は、私に予定があったからです。そこで会わなければいけない人の存在があったからです。またその人が「たまたま」東京に来ていて、どうしてもその日しか暇が作れない、そのような諸事情があったからです。

要は「自分以外の存在」によって私はその場に立たされていたわけです。

また肝心の電車が止まったのは、人が急な風に煽られてホームに転落したのかも知れない。あるいは持病を抱えた人がいて、体調が急変してしまったのかも知れない。いつもその人は、別の曜日に医者に行っているのに、担当医が休みで、たまたまその日がちょうどその振替の日だったのかもしれない。

結局原因はわかりませんでしたが何かが起こったのです。そしてその「何か」というのは、根深い因縁が複雑に絡まり合った姿だったということです。

物事というのは、全てそのような、収拾のつかないしがらみに支配されて起こっております。

その時々に因縁たちが、出会い、そしてまた出会い、結合する。そして時に自分に関わる物事として登場する。

自分の出来事というのは「他」なのです。つまり他によって生み出されるものなのです。

またその他においても、先ほども述べたようにさらにその他によって生み出されている物事であり、そこでは収拾のつかないしがらみに支配されている。

常にそのようなことが起こり続けているというのがこの世界であり、あるいは「私」という出来事なのです。

我々からすれば予期せぬことも、あるいは万に一つのことも、結局はそのような起こり方をしていて、他によって生み出された単なる物事にしか過ぎません。

無論、今こうして日常だと思っている朝の風景、机の上でPCをカタカタ打つこと、コーヒーを飲むこと。こうした普段の日常も、同じような仕組みをしております。

1つでも要素がなくなれば、あるいは過程や要因が崩れたりすれば、一方でそこに何かが加わったりすれば、決してそうなることはありません。

そう思うと、全ては万に一つ。他に支配されている。当たり前のことなどないのです。

いずれにせよ、全体の全体。この概念もその全体だということ。大自然の命、生命の実物だということ。

そこではその全体のままにしておくこと、どうしたってその全体から離れないわけなのに、人間はそれを離そうとしてしまいます。あるいは追ってしまう、手垢をつけてしまう。これが「人間的な概念」です。

そしてそれはまさに一人相撲をとっているようなこと、そしてその先で苦しんでいるのが我々なのです。

何があっても全体の全体。

ここでは我々は何もできないし、何もする必要がないのです。同時に何でもできるわけですが、それも結局は全体の全体。全体によって思わされた、やらされた結果だったのです。

我々は死ねば骨になります。その骨は2000年という時を経たのちに、なくなってしまうと言います。しかしそれは死んだのちもそのような働きをしているということです。あるいは大自然にさせられているということです。

何があっても、ここは全体なのです。全体の全体なのです。我々はこの仏のみの世界から離れたくても離れることはできません。

正確には概念はありません。何もありません。ここはたった1つのみだから、全体の全体だから、ただそれっきりだからです。

それでもこうした話、こうした指摘もその「全体」だということ。

正しい概念として、つまり「全体の全体」として向き合えるようになりたいですね。

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