「概念化」とは?「概念」の危うさと正しい「概念」との向き合い方についての話。

今回は、少し人間の「概念」についてお話できればと思います。

これまで考えもしなかったという方も中にはいるでしょう。

この記事はあなたの「今」に密接に関係しているお話です。

是非読み進めて頂ければと思います。

目次

概念化とは?

そもそも「概念」とは一体どういうものでしょうか?

ここで一旦wikipediaを覗いてみたいと思います。

wikipediaで「概念」と調べると以下のような注釈が出て参ります。

人が認知した事象に対して、抽象化、普遍化し、思考の基礎となる基本的な形態となるように、思考作用によって意味づけられたもの。wikipediaより参照

ふむ。

分かるような、分からないような話ですね。

ただここで誤解を恐れずに一言申し上げると、この「概念」を定義付ける事はできませんね。

概念は概念なんです。

ただ一つだけ分かっている事とすればこの「概念」とは人の脳みそが作り出した目に見えないものということです。

目に見えないものを定義付けることなんてできませんね。

例えば目の前に「リンゴ」を置かれて、大半の人はそれを「リンゴ」と認識するでしょうが、一部の人は「赤い物」と答えるんです。

このように「概念」とは脳を使って作り出される目に見えない架空事で、人同士におけるコミュニケーション手段として使われるものですが、そもそも「架空物」なので実に曖昧なものなんですね。

ここでは一旦「概念」とはあなたの脳によって作られた「思考」とでも言っておきましょうか。

それに伴い「概念化」とは物事が脳によって判断された「思考物」としておきましょう。

なのでどのようなものが「概念」と問われれば、誰も正確には答えられないし、あなたもこの「概念化」に対する正しい知見をそこまで深める必要もないということです。

概念化とは?例①「五感全てを駆使して、鐘の音を聞いている」

我々人間というのは頭の中で線引きをする生き物です。

物事を対象化し、自分の「価値観」で物事の価値を決め、判断をする生き物です。

スパッと「頭の中」で線引きをし、「私と他人」、あるいは「出家と在家」など、そういう線引きができてしまう生き物なんですね。

実に器用です。

我々には生まれ持ったこの「脳みそ」という思考を司る媒体があります。

そして色々の事を常に考え、常に線引きをして分別をしております。

以下の記事では、「どうして今日我々人間は繁栄してこれたのか」を解説しております。宜しければご参考ください。

ここで少し、私の生家であり、実家のお寺のお話をさせていただきます。

9月のお彼岸の頃というのは「金木犀の花」のかおりが漂う時期であります。

そのお彼岸中お寺では、「毎朝6時」から鐘を7つ撞きます。

私も何度か手伝いとしてその時期に鐘を撞くことがありました。

時間が経つと徐々に朝日がのぼってきて、「目」でみる視界も段々明るくなってきます。

そしていざ「鐘」を撞き始めるころ、「鼻」では「金木犀の花」のかおりを嗅いで、「耳」では鐘の音を聞いているというような状況になっています。

人間は「五感」を通してこのような状態を無意識に行じています。

さて、この事を「人に説明する際」あなたならどのように説明しますか?

恐らく、

  1. 耳で鐘の音を聞き
  2. 鼻で木犀の香りを嗅いで
  3. 目で、段々白じんでくるこの世界を見ている

という風にその時の状況を説明するはずです。

このように物事を一つ一つ脳の中で分けて、その事を「概念」として他人にイメージを持たせる事で初めて「説明」がつきます。


しかし実際は、「耳」で「鐘」の音を聞いている間に「鼻」や、「目」が休んでいるかというとそうではありません。

常に五感を巡らせて、五感の全ての力を発揮して「鐘の音を聞いている。」あるいは「金木犀の花」のかおりを嗅いでいる。

五感の全てを働かせて、皮膚感覚も全部をひっくるめて、夜明けのこの白じんでくる世界を経験している。

そう、つまりは「耳」でも「鐘」の音を聞いているのです。

しかし「他人に説明したり」、「文章化したり」しようとすると、「目で白じんでくる世界を見て、耳で鐘音を聴き、鼻で金木犀の花のかおりを嗅いでいる」という以外表現の仕様がありません。

要するに何が言いたいのかと言うと、

実際の世界と概念の世界は違う

という事です。

「実際の世界」というのは「全体」です。

全てが一つの「仏の命」として溶け合っている。

例えば「壁」を殴れば自分の手が痛くなるのは壁によって自分の命が生じたということであり、壁が「自分」だということです。

あるいは人とぶかるとお互い痛い思いをする。それは他人によって自分の命が生まれた瞬間であり、他人よって自分は生かされているということです。

このように命に線引きはない。この世界に線引きなどないのです。しようと思ってもできない。

線引きがあるのはこの「頭の中」だけです。

現に森林が発する「酸素」を吸って今こうして呼吸ができていることはその最たる象徴でしょう。

この世界では線引きができないということは評価もできないということですね。2つに分かれないのだから、こっちの方がいい、いやあっちの方がいい。そういった評価もつけられないのです。例えば東京暮らしの方が楽しい、いや地方暮らしの方が楽しいとか。

子供がいる生活の方がいい、いや独身の生活のほうがいいとかですね。

そういったことはまるで何もないのです。

少し話は脱線してしまいましたが要するに物事には「ここからここまでが俺の命」という線引きができないんですね。

これが仮にここからここまでが「俺の命」という線引きが出来てしまったら瞬く間に「酸素」を奪われ窒息死してしまうことでしょう。

我々の命というのは「大自然」に生かされ、一つとして溶け合っている。たった1つの「俺という世界」なのです。あるいは仏のみの世界と言ったり、達磨様はこのことを「諸法無我」と言われました。

今回の話で言えば「五感」全体を駆使し、この世の全生命をかけて、「鐘の音」を聴いているということです。

「概念」では線引きができますが、実際は線引きなどはできない。

その他にも日常生活で言えば、

  • 全ての感覚を駆使し「朝ご飯」を食べている。
  • 全生命を駆使し、「お手洗い」をしている。
  • 宇宙全体を巻き込んで「スマートフォン」をいじっている。

とかでもいいですね。

「坐禅」もそうです。この体、全ての命を通して「坐禅」をしているんですね。

しかし他人とコミュニケーションをとったり、文章化する際にはこのように「概念化」し、本来一つの命を細分化して分けることで他人とコミュニケーションが取れたり、説明が付けられるわけです。

このように「概念化」し物事を分けて考えるというのは、人間が「コミュニケーション」をはかる上ではとても大切な事ですね。

また人間だけが可能な「行い」であり、今日の文明の発展にこの「概念化」というのは大きな利益をもたらしました。

しかし、繰り返しになりますが、実際の「命」の現場はそうではありません。

先ほども述べましたが、森林が発する「酸素」を吸って生きていられるように、実際の「命」というのは概念で線引きすることなどできない訳です。

つまり、

「概念」とは「概念」であり、「実物」ではない。

また、

頭で理解したことは単に頭で理解しただけ

とも言えますね。

「概念」というものには実体がありません。

掴むことができない。

全幅の信頼を寄せられないという事ですね。

しかし現代の我々はこの「概念化」による支配が全てです。

概念化とは?例②「良寛禅師」のエピソード

話は一旦変わります。

その昔江戸時代に活躍した、越後(現在の新潟県)出身の「良寛さん(1758-1831」というお坊さんがいました。

この方も非常に有名な僧侶で、現代の仏教界に絶大な影響を与えた人物です。

ここでは詳しくは解説しませんが、少しここでその「良寛」さんにまつわるエピソードをご紹介したいと思います。

この良寛さんは、人から本を借りたら全て「俺のもの」と書いてしまうんですね。

最低ですよね。(笑)

今だったら、器物損壊容疑で即逮捕です。

良寛さんにせっかくの思いで貸した本人は「良寛さん!なんで、俺のものって書いてしまったのだ!」と思う訳ですね。

しかし良寛さんはその借りた「本」だけでなく、道端の木々、岩、全てのものに「俺の物、俺の物。」と書いてしまうんです。

つまり、良寛さんには「俺のもの」と「他人のもの。」という風に物事に境界線がない人だったんです。

決してこの良寛さんは、その人の物を盗もうと思ったわけじゃありません。

生きる事において「境界線」が無いのですね。

真実の世界を体現されていたのです。

概念というのは「架空物」だということをその身をもって理解されていたのですね。

我々はややもすると、頭でしっかり線引きをし、「自分のもの」と「他人のもの」という風に物事を分けます。

これはコミュニケーションや約束こと、法律を守る上では欠かせない事であり、現代社会はそれで成り立っていると言われればその通りです。

しかし、実際の「物」だったり、「命」というものには「俺のもの」、「他人のもの」という様な明確な基準はありません。

現在、過度な「線引き」によって始終して、苦しんでいるのが我々の「日常生活」であります。

「頭」で考えて、「線引き」をして、「分別」をして、「物を分けて」、これは「あなたのもの、これは私のもの」ということで今の世の中は成り立っている訳ですが、この線引きというのは頭の中の話でしかなく、「実際の命」においては線引きはできないわけですね。

概念化とは「大自然の行為」を「人間の行為」に変えてしまう事

さてここで読者の皆さん惑わす発言をさせていただきます。

人が「思う」というのは、これは「自分」がやっているわけではありません。

つまり「思う」という行為はやめようと思ってもやめられない、

「生命活動」であり、「生命の実物」

です。

惑わすような発言でしたら、すみません。

先ほどは「概念」というのは人間にしかできない「実体のない行為」で、「大自然の行い」ではないと説明しました。

どういう事かきちんと説明します。

整理すると、「概念化」と「思う」ということは似ているようで180度全く違うものです。

例えばあなたが今、この説明を受けて「なんだよ、どういうことだよ?」と思ったとします。

その「思い」はあなたが果たして行った事でしょうか?

恐らく無意識のうちに浮かんできた「思い」だったはずです。

つまりあなたが「思いたくて思った」訳ではなく、それはどこからか突然やってきた「大自然の行い」であったのです。

「思う」という行為は仕方のないこと。

「どのように思う事」も、「何を思う事」も、これは自分がやっている事では無く、「大自然の方」から突然、縦横無尽にやってくるものです。

こればかりはどうするこもできない。

「坐禅中」であっても、破廉恥な事を思ったり、卑猥なことを思うようにこればかりは「自分」がやっているものではない為どうしようもありません。

何故なら、

「私がやっていること」ではなく「大自然の方から行われているから」です。

しかしながら、このどうしようもない「大自然の行い」を形成化していく、思いを好きなように構築していってしまうのが我々人間です。

つまり、

「大自然の行い」を「大自然の行い」ではなくしてしまう。

これが先ほどいった「概念化」であり、「思う」とは180度違うといった根拠です。

この点をきちんと踏まえなければなりません。

我々の日常生活においてはこの「概念化」が全てです。

つまり「大自然の行い」を「人間の行い」に変えてしまう行為。

「かっこよくなりたいな」と思って、「服を購入したり」すること。

「お金持ちになりたいな」と思って、「パチンコに行く事。」

時にはその思いが誰かを傷つけてしまったりもする。

それでは本末転倒なのです。

我々の命は一つとして繋がっている「仏の命」です。

実際は決して二つと分かれない命を生きており、そのような仏の世界に身をおいて生きております。

「仏法は無我にて候う」という言葉があります。

この世界には「俺」というものがないというわけですね。

また、「坐禅」は「仏行」とも言われます。

仏の世界を行じるから「仏行」、本来の世界を行じるから「仏行」なんですね。

「坐禅」においては「概要」を形成化できません。

「大自然の行い」を「大自然の行い」のままにする。

思いが浮かんで来たら「浮かんできっぱなし」にする。

そして気が付けばその思いは「スーッ」とどこかへ消えてしまう。

これが本来の「概念の在り方」で、人間における正しい「概念」との向き合い方です。

「概念化」はあくまでもコミュニケーションのツールでしかない

我々人間にとって、脳によるこの「概念化」というのは現代社会において非常に大切な事です。

これが今は「全て」と言ってもいい。

しかし、「概念」というものには実体がありません。実際に手に取ることができない訳です。

人と人がうまく人間関係を築くうえで重要な事ですが、それはあくまでもツールでしかなく、我々の実際の「命」とは無関係な話となります。

そこを踏まえることが出来れば、我々人間はもう少し安心して生きていく事が出来るのではないでしょうか。

以上お読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次