本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。
今回は『普勧坐禅儀』本文の、
という部分を解説していきたいと思います。
まず初めに前回の、

のポイントを振り返りたいと思います。
- ここでなければならないということはない
- お釈迦様から道元禅師まで50代にも及ぶ祖師方か等しく「仏印」を持ってこられた
- 「仏印」とは仏の証明
- つまり「真実」の事
- 不安に思う「心」を探そうとしてもどこにも見当たらない
- 我々が生きる世界は自我意識で勝手に判断した世界ではない
- 「不安に思う心がどこにもない」という事に気付くのが本当の安心
それではポイントをおさらいしていただいた所で、本記事の内容に進んでいきたいと思います。

こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。
況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。
凡(およ)そ夫れ、自界他方、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶつちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。
終わり
打坐とは一生懸命坐禅を打ち込むこと

今回はこの部分を読んでいきたいと思います。
「唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる」。
まずはここから。
名称として「坐禅」のことを「打坐」ともいったりします。
この「打」という「字」が入るのは「専一に打ち込む」という意味があるからです。
あるいはそのものになりきることを「打」と言ったりもします。
例えば「眠る」ことを「打眠」というんですね。
もしくは食事をとることを「打飯」という。
このように「坐禅」をすることとか、「眠る」こととか、「ご飯を食べる」ことを強調する時にこの「打」という字を日本は元より、中国ではよく使うんですね。
中国から飛来したこの禅においても同様にこの「打」という字はよく使います。
余談を含んでしまいましたが、「唯、打坐(たざ)を務めて、」というのは「一生懸命坐禅に打ち込む」ということです。
この「打坐」というのは一つものであります。
というのもこの「坐禅」は「大自然の行」であり、大自然はすべて繋がっているからです。
例えばどこからかやってくる「酸素を吸って、我々は呼吸をし」、生命を維持できます。同じく「何かを食べて」生きていける我々ですが、その「何か」も、もちろん私以外で、それは大自然のものです。
意識せずともカラスの鳴き声やサイレンの音が私の「耳の鼓膜を震わせる」のも、またそれが音だと「認識する」のも、すべて自分ではない他によってもたらされるんですね。
「他」によってこうして生命活動が発生させられているんです。つまり他が私そのものであるわけですね。
これが仮にここからここまでが俺の命といった風に「自我」を認めたり、命に線引きができるたとしたら、我々は即座に死んでしまうことになるんです。
しかしそうはならない。自も他もない。命に境界線などない。物事は決して2つに分かれない。すべては大自然そのものであり、私もその大自然そのものだということなのです。
その「大自然そのもの」だから、先ほど言ったように打坐も「一つもの」なんですね。
なので「ワタクシガ坐禅をする」というよりも「坐禅がワタクシをする」といってもいいかもしれないですね。
主語と述語が逆転してもなんら問題ない。
しかし「ワタクシ」という自我をそこに立てるとそこに「隙間風」が入ります。
「ワタクシが坐禅をする」。う~んといった何とも腑に落ちない感じですね。
仏法ではこの「ワタクシ」というものを一切認めておりませんし、「大自然」にはこの「ワタクシ」というものが一切ありませんからね。
この「ワタクシ」は大自然そのもので、その大自然と私とは2つに分かれないからです。ワタクシがワタクシをワタクシする。ということは、つまり大自然を震わせている、大自然の行いなのです。
この「打坐」は「大自然の行」そのものであります。大自然そのものであります。
「ワタクシ」と「大自然」が一体の行でありますので、「坐禅がワタクシをする」といってもいいのです。
そしてそのように表現すれば、何ら「隙間風」が生まれないんですね。
それが道元禅師がお示しになる「打坐」であります。
坐禅によって人生が邪魔される
続いては「兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。」という部分です。
「大地」には根を生やした植物が沢山ありますね。
その植物はというと、兀兀としたこの固い「大地」の上でもきちんと根を下ろし、生命活動を行っております。
なので「兀地」というのは兀兀としたこの固い「大地」の上でもしっかりと根を下ろすことをいいます。
そしてこれは我々で言うところの「坐禅」の行を指します。どのような場所でも坐禅はできるからです。
そして「礙(さ)へらる」という部分。
「礙える」というのは、元々「邪魔をする」と言う意味ですね。
つまり「しっかりと根を下ろし坐禅に打ち込んだ時、その坐禅に邪魔される」というのです。
ん?
一体どういうことでしょうか?
我々は「坐禅」をしていると次から次へと色んな思いが浮かんできます。
そしてこの「思量する」というのは我々が生きている証拠ともいえるべきもので、生命活動の一環なんですね。
その中には本当に下卑たるものもありますし、素晴らしいアイデアなんかも浮かんでくる場合もある。
本当に色々な思いがこの「坐禅」をしていると浮かんできます。
なので、このように仮に教えられた通りに「坐禅」に打ち込んだとしても色々な思いが浮かび上がってきてしまうのは仕方のないことなんです。
しかし「坐禅」をして、手を組み、足を組んでいると「その先」が何もできないんですね。
例えば日常生活でいえばふとした時に「あ。そうだ!」と思ったとしたら、続けざまにそれを行動に移すことができますよね?
思い浮かんだものを書き留めたり。或いは思い出した場所に行くことだってできる。
要するに「思量したこと」に人間の手を加える事ができてしまう。
しかし「坐禅」をして「足を組み、手を組んで」いたらそういうことが一切できない。
「坐禅」に邪魔されてそういうことが一切できない。
元より思いが色々に浮かんできて、それを行動に移すというのは一体どういうことかというと、それは「人生」であるんですね。
「大自然の姿」ではなく「人生」であると。
つまり「思量する」ということまでは人間の抗う事ができない「生命の実物」だとしても、その先の「行動」というのは「人生」であると。
なのでその「人生」が坐禅によって邪魔されてしまう、行えなくなってしまう。
「坐禅」をしていると「あぁもうそろそろ、パチンコ屋にいかなくちゃなぁ。」ということもできない。
「これはいいアイデアだ!メモ書きしておかなくちゃ!」というのもできない。
人間が考える「善悪」もそう。
あらゆる人生事が「坐禅」によって邪魔される。
全てがこの「坐禅」をすることによって邪魔されてしまう。
それを今回の「兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。」というんですね。
「坐禅」は大地が不動で根を生やしたような姿なので「兀地」と言いますが、その「坐禅」の様子に全てが邪魔されてしまうというんですね。
だから「兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。」と。
「人生」が坐禅によって邪魔される。
或いは人生を「棚上げ」にすると言ってもいいかもしれませんね。
これは有名な沢木興道さんという方がよく言っていらしたんですね。
坐禅は人生を棚上げにした姿である
と。
我々は人生によって「本来の命」を引きずり回されているんですね。「人生」によって「本来の命」が棚上げにされている。
しかし本来はその逆で、「坐禅」することによってその人生が「棚上げ」にされると。
人生が邪魔されてしまうと。
そういうような意味が今回の「唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。」にはあるわけなんですね。
人間の頭が様々な相手を生む
「万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし」、
続いてはこの部分です。
人生はさまざまな捉え方ができます。
我々人間はその時々の相手によってその容姿をかえます。「カメレオン」の「体質」のように、その時々で「生き方」を変えたり、対応したりしていく、実に器用に人生を歩んでくんですね。
「万別千差」といわれるように、人間にとっては色々な相手がこの人生にはいるわけですね。
またそこに個々の価値観が付随して、余計に「色々な相手」を生み出すのです。
例えば「あの人は俺より身長が低い」、「あの人は俺よりも顔が悪いな」とか、本来の「1人の人物」に対し、このような「相手」まで作り出してしまう。
そのような「余計な相手」を生み出しているのは何か?というとそれは我々の「頭の中」にあるんですね。
例えばこれは「1億円の壺ですよ」という価値観は我々の「頭の中」だけにあるんですね。大自然にそんなものはありません。
そしてそんな「1億円もする壺」を自分の脇にでも置かれたら急にソワソワしだすんですね。
本当に面白いですよね。
つまり我々人間にとって目の前に展開しているのはさまざまなものはこの「差別意識」なんですね。
しかし「差別意識」は「差別意識」なんですね。そのような「差別意識」は「大自然」とはまったく関係ありませんからね。
本来まっさらな「大自然」に「価値」を付けていくのはこの「差別意識」があるからで、そのような「差別意識」がより多くの「相手」を生み出しているのです。
そしてその「頭の中」の「差別意識」に作り出された「相手」によって人生を振り回されているのが我々人間であるのです。
自分で作った「差別意識」によって自分の人生が狭まってしまう。
「万別千差」という、自分で勝手に作り上げた「相手」によって振り回されて、「1円の壺」、「1億円の壺」これら2つを並べた時に同じような「目」で見る事ができなくなってしまう。
昔「如何なるか是仏」という問いに対して「庭前の栢樹子」と答えた祖師がおりました。つまり「すべては柏の木ですよ。」と答えたんですね。
その祖師は「目の前で展開しているもの」をただ「ありのままの姿」でお答えしたんです。
それなのに我々人間は「な~んだ、仏というのは柏の木なのか」と、自分の「差別意識」で高をくくりはじめる。
我々はいつもその「差別意識」に振り回されている。
しかしそのような「差別意識」があるのは「頭の中」だけなんですね。
目の前に展開している大自然には何一つ、人間によって難癖つけられる筋合いのものは何もない。振り回される「相手」というものもいない。
「犬のウンチ」だろうと、「1億円の壺」だろうと、「樹齢1000年の桜の木」であろうと、全て「仏」であると。
それなのにそのようなまっさらな大自然に「難癖」を付けるのが我々人間です。
そしてそれによって勝手に苦しんでいるのも我々人間なのです。
「差別意識」が芽生えるのは人間としては当然のこと
しかしこの「差別意識」というのはどうしても生まれてきてしまうものでもあるんですね。
或る意味このような「差別意識」が芽生えるのは、人間である以上仕方のない事でもあるんです。
何故なら「考えるな!」と言われたところで考えてしまいますよね。
仮に「考えない」ということをしたとしてもそれは「考えないを考える」ことに該当しています。
どのような場合においても「考えない」なんていうのは人間にとって無理な話なのです。
なので「万別千差と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし」。
つまり、

そのような差別意識が芽生えるのは仕方がないとは思いますが、それでも大自然の行を行ってください。
ここでいう「大自然の行」とは勿論、「坐禅」のことですね。
なぜ「それでも大自然の行を行う」と言うのかは、冒頭でもお伝えしたように、「手を組み、足を組むこと」で「その先」が何もできないからなんです。
絶対的真実、真実以外に囲まれない世界に没入する。大自然のみの世界へ。坐禅をするということはこういうことです。
すなわちこの「坐禅」が大自然そのものの「行」であるから、「ただ坐ってください」と。
「考えること」は生きる上で仕方のない事ではありますが、その「考えた」先に本来いない「相手」を作り出して人生を振り回される必要はないんです。
「坐禅」はその「人生」以前の「大自然の行」であり、人の「あるべき姿」でもあり、人が「大地」に根を下ろして「安心」を得ている姿でもあります。
本来の命を生きている瞬間でもあります。
木々と同じようにこの「大地」に根を下ろすことで我々は「架空の相手に振り回されない」本来の人生を歩んでいけるのです。
まとめ
今回は、道元禅師がしるした『普勧坐禅儀』の、
と言う部分を解説してきました。
最後に本記事のポイントを振り返りたいと思います。
- 「坐禅」のことを「打坐」と言う。
- 「打坐」とは一生懸命坐禅に打ち込むことだが、2つに分かれない「大自然の行」であるからに「坐禅がワタクシをする」と言ってもいい。
- 坐禅をすることで、人生がその坐禅に邪魔される。
- 坐禅に人生が邪魔されるおかげで我々は本来の生き方ができる。
- 坐禅は人生を棚上げにした姿である。
- 世界に相手は誰もいない、人間が相手だと思っているのは単なる「差別意識」。
- 差別意識が芽生えるのは仕方のないこと。
- それでもただ大自然の行を行う。
お読みいただきありがとうございました。
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