『永平広録』第466段の上堂を参究する。全てはこの指の中にある

みなさま、お久しぶりです。

しばらく更新が途絶えておりまして、申し訳ございません。

約1年ぶりとなります。

本日よりまた少しずつですが、この「道元禅師」に関するブログ記事をUPしていきますので、ぜひまたお楽しみいただければと思います。

早速ですが、道元禅師がお著しになられた「永平広録」というものがあります。

その書物に関する参究を、この復活に乗じて、今回からしていきたいとおもいます。

内容自体は「永平広録」の途中からとなりますが、それでも楽しめる内容となっておりますので、ぜひ楽な姿勢でお楽しみいただければと思います。

目次

『永平広録』第466段の上堂

参究資料

全てはこの指の中にある

上堂。「諸仏説き到らざるのところ、祖師提し起さざるのところ、総て永平が指甲縫裏にあり。還た見るや、還た知るや。放行すれば則ち三頭八臂、把住すれば即ち水泄不通。且く道え、放行せず把住せざる時如何。」良久して云く、「万差の路を踏断して自従り、ただ毗盧頂上に向って行く。」

今回はこちらの内容を読んでまいります。

高祖様が須弥壇上にのぼってご説法されました。

道元禅師の書物の中には皆さんもよくご存知の通り、『正法眼蔵』というものがありますけれども、道元禅師が永平寺に入られてからはほとんどこの『正法眼蔵』は書き続けておりません。

そうではなく永平寺に入られてからは、今回の『永平広録』と呼ばれる上堂を中心にご説法をされてきました。

今回の内容は道元禅師がお亡くなりになる2年くらい前のご説法となり、道元禅師の晩年の境地を窺い知る事ができます。

諸仏説き到らざるのところ、祖師提し起さざるのところ、総て永平が指甲縫裏にあり。

「お釈迦さまや各仏祖方がどうしても説くことのできないもの、こと。祖師が未だ説いていないこと、到達していないところ、どうにもならないところ。」それは皆さんに見してあげたいと思っても見せてあげられないものである。

それが一体どういうものかというと、その全てが今、ここ、この、永平(道元禅師のこと、自分のこと)の指の中、握り拳の中にある。

この中(指の握り拳)にお釈迦様や祖師方がどうしても説けなかったものがある。

道元禅師

全てのことがこの指の中に含まれている

と言われるんですね。

自分は自分を見ることができない

これは一体何を言おうとしているのでしょうか。

お釈迦さまや祖師方がどうしても説けなかった「真実の有り様」。

「しかし説くことがどうしてもできなかったものは、私のこの指の中にある。」というのが、今回の道元禅師の御説法であります。

そもそも「見る」というこの働き、あるいは我々が「考える」という働き。もしくは「腹が減る」と言う働き。「食べ物を消化してくださる」という働き。

そもそもの「それら」が「仏の命」だからですね。今回でいえば「見ること」自体が仏の命だからです。

「見ること」の働き自体が「仏の命」ならば、「自分」が「自分」を見ることができないように、その「見ること」によって「見ること」はできません。

掴むことができないのです。どんなに早く走ることができても、決して自分からは逃げられない。

これは何を言わんとしているのかというと、これが「仏」という考え方ではなく、全てが「仏」であるという事なのです。

この「自分自身」が、あるいは今生きている「自分自身」がこれまでの諸仏や祖師方がどうしても説き得なかったところだと言うのです。

全てが仏であるのに、仮にこれが「仏」と限定してしまうということは、仏じゃないものを作り出すことになります。

なぜなら「これが仏」と言っている自身が仏じゃないことになるからです。

そのことをこれまでのお釈迦さまや祖師方は、様々な手法を持って説こうとしてくれているんですね。

全てが仏なのです。物事はこの「仏」から漏れることはないんですね。

「自分」はこの仏を生きる当事者であります。その「自分」を傍観者に仕立てることはどうしてもできない。仏から分けることはできないのです。

事実が全て「仏法」で、その事実を道元禅師は「私の握り拳の中にある」と言うふうにおっしゃったわけですね。

道元禅師

そのことがお前さんたちにわかるかい?(還た見るや、還た知るや。

万差の路を踏断して自従り、ただ毗盧頂上に向って行く。

そのようなこともあり、このように「仏」とは大自然の有り様のことだと言うんですね。

また例えば人間の世界には始まりがあったり、終わりがあったりします。

しかし先のことを踏まえると、大自然には始まりもなければ終わりもない。常に「無始無終」であります。無常であります。

始まりや終わりというのは単なる人間の概念遊びなのです。

事実は常に「仏法のまま」なのです。

大自然にも、また「仏法」にも始まりがなければ終わりがない。

今、こうしている間がいい例です。

朝ごはん食べても、お昼頃になればまた腹が減る。昨日あんなに美味しいものを食べたのに、朝起きるとまた腹が減っている。

これが大自然ですね。仏のあり方です。

始まりがない、終わりがない。

しかし人間というのは物事に始まりをつけて終わりをつけたがる。

「悟り」が良い例です。「悟った!」というと、何か決着をつけたような感じがする。これで十分だと。決着をつけたがる。

しかし我々が生きているこの世界には何一つ始まりもなければ終わりもない。常に仏法のままです。

そこでは常に仏道修行している、あるいはしなければいけないというのが我々の在り方なのであって、生き方なのです。

道元禅師のいう「お悟り」はそう言うことです。

大自然そのもののことです。

「大自然の有り様」こそが「お悟り」だと言うんですね。「お悟り」には決着がない。いくら登っても頂を見ることができない。

その大自然の有り様を、次の、

ただ毗盧頂上に向って行く。

と表現されているわけです。

大自然には「始まり」もなければ「終わり」もない。

この部分が今回の上堂の味噌となる部分でしょうか。

修行もそう。

人間生活も本来そういった捉え方ができれば、我々はもう少し楽に生きられるのかもしれません。

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