今回は少し肩の力を抜いて記事を書いてみました。
半分本気の、半分冗談めいた記事です。ブレイク時間としてお読みください。
仏道を邪魔するということ
私は「男」です。やはりそれなりに色欲があります。だらしないことに女性が大好きです。きれいな女性を見ると気持ちが舞い上がってしまいます。どうすればあのようなきれいな人と仲良くなれるのだろう。私も綺麗な女性と仲良くなりたい。このような気持ちでいつもいっぱいです。
その気持ちの強さたるや、すさまじいものです。なにかを真剣に考えているとき、あるいは作業をしているときなどもお構いなく、美人を見かけるとその色欲が脳に侵入してきます。
男とは不便な生き物です。
先日も自転車をこいでいた時、美人に見とれて事故にあいそうになりました。
しかしそこで気づいたんです。
「それって人生を邪魔されているのだ」ということに。
無論、人生に邪魔はないほうがいいです。またその人生とは「仏道」のことです。
本来仏である我々にとって、歩んでいる道は仏道だからです。また仏である我々が真剣に追求し、真剣に歩まねばならなければいけない道が「仏道」だからです。
我々一人一人が成仏するための道でもあり、世界を救う道でもあります。すべてにおいて優先される道、それが仏道です。
本来の人生=仏道なのです。歩むべき道=仏道なのです。
仏道を歩むことができれば我々は成仏できます。仏である我々にとってそれが本当の幸せのわけです。なので仏道が我々の本当の目的のわけです。道のわけです。
仏道に邪魔はない?
その仏道に邪魔はあってはいけません。またその仏道の邪魔をすること、それはとても罪なことです。
あるいはその道を邪魔されずに歩めることというのも、とても幸せなことだということですね。
私は仏道を真剣に歩みたいと考えている人間です。本来の役目をまっとうし、正しく生きたいと思っている人間です。
そんな私にとって「美人」は敵だったのです。そんな美人とは距離を取らなければならなかったのです。いちいち翻弄されている場合ではありません。
例えば将来結婚するならば、実は美人の奥さんをもらうより、やさしくて愛嬌のある女性を妻にめとったほうが良いことなのかもしれません。常に平穏な気持ちで仏道修行ができるようになるかもしれません。
いま私は都内にいます。都内はほんとうに美人が多いです。普通に道を歩いていても、自転車で食べ物を配達していても、そこら中に美人がいます。ほんとうに多くの美人とすれ違います。
以前は「なんていいところなんだ!」そのように思っていました。
しかしこのような思いに至ってからは、東京は恐ろしいところだ。東京というのは悪の巣窟。そのようにも思うようになりました。
そう思うと美人というのも、また不憫な存在なのかもしれません。美人にならなくていい。普通でいいのです。ブスでもいいのです。
美人だと私のような人間に今後邪魔にされるかもしれない。一方でブスであればそういった意味で重宝されるかもしれないからです。
また美人を妻にめとった男の人生も不憫なものなのかもしれません。常に仏道を、あるいは真剣なことを邪魔される可能性があるからです。
昔、私は宮沢賢治が好きでした。彼の潔白さたるやすごいものがありましたし、女性を一度も抱いたことのない宮沢賢治にどこか尊敬の念を持っておりました。
女性問題、これは決して無視することはできません。
過去の祖師方もおそらく真剣にこの問題と向き合っていたはずです。
しかしこんなことばかり言っているとさすがに女性陣に怒られますね。
それにこんなこと言ったわりには、実際は大した問題ではないのです。
仏道の志が強ければそんなこと問題にすらならないからです。仏道の志が弱いからこそ、そのような保険をかけたくなるわけです。
またそれを邪魔と取るかどうかは結局は人間が勝手にやっていることなので、個人の考えなのです。要するに修行が足りないということですね。仏の世界に邪魔なんてものは一切存在しません。邪魔があるのは人生だけです。それを邪魔だと捉えてしまう人間的な部分が未だ強いせいです。
大自然に美人といった基準は通用しません。そういった概念がそもそも存在していないのです。
それに人は見かけではありません。
人生は、美人な奥さんを妻にしたほうがいいに決まってます。女性に感謝です。美人に感謝です。
美人がいないときっと仏道も味気のないもの、たやすい道になっていたかもしれませんね。そうさせないのが美人です。
美人のおかげで男はこんなにも楽しいのです。
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