道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㊻大自然の教えを説いたのが「仏教」。

本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。

今回は『普勧坐禅儀』本文の、

加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。

という部分を解説していきたいと思います。

まず 初めに前回の、

のポイントを振り返りましょう。

前回のポイント
  • 我々はせっかく「人間」として命をいただくことができた。
  • それなのに「六道輪廻」から一向に抜け出せないのは勿体ないこと。
  • 仏祖方から受け取った仏道における「坐禅」という宝。
  • せっかく人間として生まれ、そこから仏法にも出会えたわけだから六道輪廻を繰り返したり、みだりに人生を楽しむのではなく「真実」に生きてください。

それではポイントをおさらいしていただいた所で、本記事の内容に進んでいきたいと思います。

普勧坐禅儀(訓読文)及び、今回解説する部分(青マーカー)

唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。 

終わり

『普勧坐禅儀(訓読文全文)を見たい方は①の解説へ』

目次

運命は電光に似たり。

今回は、

加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。

という部分を解説していきます。

まず「加以(しかのみならず)、」というのは「そればかりではなく」という意味になります。

また「形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、」というのは「我々の命というのは草の上の露のような儚い存在である」という事になります。

そして「運命は電光に似たり。」というのは、「我々の一生というのは稲妻のようなものであり、たちまちに消えてなくなってしまう。それほど儚い物である」と。

道元禅師は、

世の中は何にたとへん水鳥のはしふる露にやどる月影

という詩を残されております。

「我々の命というのは、水鳥がくちばしについた水の滴をぶるっとふるい、その水滴がくちばしから離れていく一瞬にだけ月の光の影が宿る様のようなものである」と言うんですね。

我々の「命」は恐ろしいほど短く、一瞬の出来事のようなものである。という風に言われるわけです。

こういった詩を残されております。余談でした。

続きに参りましょう。「倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。」という部分ですが、「倐忽」というのは「犬」が素早く走る様子をいいます。

当時、誰もが目にするものの中で、一番早い生き物いえばこの「犬」であったとされております。

道元禅師の下には多くの弟子たちがいたわけですが、その弟子たちに「早い様子」を伝える言葉として、この「倐忽」という表現を道元禅師はよく使われていたんですね。

続いての「須臾(しゅゆ)」というのは、これは「時間の単位」のことで、今でいうところの「48分」を指します。

なので「須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。」というのは「その48分の間に命はなくなってしまうぞ」ということなんですね。

もし本当に、生命活動が48分だとすれば、それはものすごく短く感じられますね。

あくまで例えですが、でもそのくらい本当に短いぞ、と言うわけです。

我々が知っている物凄く短い時間の単位として、この「須臾(しゅゆ)」という言葉の他に、「刹那」という言葉があります。

あの頑丈で屈強な金剛力士が「指」を「パチーン」と爪弾きをするその間には「65刹那」があると言われておりますが、「1刹那」というのは非常に短い時間を言う訳ですね。

この「刹那」が使われた言葉で「刹那生滅」という仏教用語がありますが、これも非常に短い間に人間の命は生滅してしまうという教えなんですね。

このように仏教ではあらゆる場面で「命の儚さ」というものを説いております。

同時に今回の、

加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。

という内容でも、道元禅師が繰り返し繰り返しこの「命の尊さ」、「儚さ」というものを我々に説いているんです。

人間として生まれ、仏法に出会うことができたこと

我々はこの時代にたまたま人間として生まれる事ができました。

もしかしたら「他の動物」に生まれていたかもしれない。

或いは「生き物」ではない「他の在り方」であったかもしれない。

本当にたまたま人間として生まれてこれたんです。

仏教には「六道」という考え方があります。

これは生前の行いによって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界を生まれ変わり死に変わりする考え方のことです。

何の因縁か、せっかくこうして人間として生まれることができた。

しかし人間で生まれてこれたは良かったが、その命は非常に短いというんですね。

ですから道元禅師も、

道元禅師

我々は「今生」において、この「命」において自分を救わなければ、いったいいつの時代に自分を救えると言うのか。

というんですね。つまり今生の意義を説かれるわけです。

病気をして元気になって、そこでまた「ゴルフ」をやったら、それは以前の「六道輪廻の世界」に迷い込んでしまうようなものなんです。

元気で健康な今の内にこの身を救わなければ、今度は一体いつ自分を救えるのかという話なんですね。

「救う」と言うのは仏道を歩むということです。本来「仏」である我々が、本来の命をいき、本来の役目に生きる。そして六道輪廻を脱する。これが我々仏の自然な生き方であり、安楽の生き方だからです。

救いにはどうしても仏道が必要なんです。

こうして人間として生まれてくることができて、さらにこうして仏法にも出会うことができた。

非常にありがたいご縁である、稀なご縁であると。

次は二度と人間に生まれてくることができないかもしれない。二度とこの「仏法」に出会う事ができないかもしれない。

そのような可能性もあるわけです。

六道輪廻。これを脱することが、我々の本当の生き方です。本当の目的です。

今、こうして人間として生まれ、仏法にも出会うことができた。

その六道輪廻を抜け出すチャンスを得ることができたのです。しかしそのチャンスを与えられている時間もとても短いよ、というのが今回の内容です。

仏教と他の宗教の違い

それでも果たして、「仏法というのはそこまで本当に尊いものなのか?」「そもそも六道輪廻なんざ、古い考え方である」。こういった疑問や不満もわいてくると思うんです。

「自我」を持つ人間です。

どんなに尊いこの「仏法」であっても疑ってしまうんです。あるいはその自我のせいで信じきれない。

世の中には様々な宗教があります。

「イスラム教」があって、その「イスラム教」にも尊い教えがある。または「キリスト教」があって、その「キリスト教」にも尊い教えがある。

そういう中においてこの「仏法」だって同じではないのか?同じような傾向、ベクトルなのではないか?

そう思うのも自然な事なんですね。

世界には本当に沢山の宗教があって、それぞれに特色があって、みんな自分の「価値観」にあった宗教を信仰している。

仏法だってそのような宗教と変わらないのではないのか?その中の1つではないのか?

そう思われる訳です。

お釈迦様は今から2500年ほど前、徹底的に自分を見つめる事で真実を見出しました。

この「自分」という存在は一体どういうことなのか?

その基本的な部分を見つめた方がこのお釈迦様であります。

そして、その「自分という存在」を疑ったお釈迦様によってひらかれたのがこの「仏教」なんですね。

我々はこの世に生れて、いつのまにかこの「自我」というものを持ち合わせております。

知らず知らずのうちに「自分」というものを形成していくんです。

そしてそれぞれの人がこの「自分」というものを信じ、目の前に展開している物事を「自分なり」の解釈で認識しております。

しかもその際、「自分の認識」というものに疑いを持っている人など一人もおりません。

その点「自分なりの解釈というものが果たして真実なのか?」、「自分の正体とは一体何なのか?」というのがこの仏教の始まりであり、根本的な教えなんですね。

そして行き着くわけです。大自然には「自我」がないということに。

ここでは鳥の声が自分の耳を震わせる。つまり鳥によって自分の命が起きているということ。

またあるいは「自分が見た」と思う前にそれは見えていた。自分というのは単なる後付け説明でしかないということ。

自分というのは全て他によって形成されていること。自分というものがないということ。全て大自然によって生かされていること。

このようなことに気づかれたわけです。

つまり「自分」というものを否定した。

真実を見つめ、「大自然」や「物事」を「自分なりの解釈」を介さずに見つめているのがこの仏教なんですね。

この世界ではみんながみんな「自分」というものが正しいとおもっており、それが「真実」だと思っている。

そしてそれが今のこの世の中を成り立たせており、今ある宗教の本質です。

この仏教とはそもそもの根底が異なるわけです。

他のご宗旨においてはそのどれもが「自我意識」の延長であり、「自我」があってこそ成り立っているものです。

それは真実ではないということ。単なる人間遊びだということに気が付かなければなりません。エゴの延長だということに。

「仏法無我にて候う」という言葉もあるように、この仏教が拠り所とするのはこの世界の真実です。この世界の正体です。それが足を組むということなんですね。

この足の痛みにはこの世界の正体が詰まっているんです。

どんな宗教心を抱えていても、足を組めば痛くなる。どんなに頭の良い人でも足を組んで痛くならない人などいません。例え真実を頭で理解できなくても足を組めばいいんです。そこには全てが詰まっているんです。この世界の正体が、この世界の命が。

これ以上も以下もない全てが、その足の痛みには詰まっているんです。

なので大自然を見つめ、仏道を歩む人はこの坐禅を組むんですね。この坐禅をおすすめになるわけです。

道元禅師も自己に親しむ尊さ。足を組むことの尊さを教えになるのです。

自分の命を大切にするということは他人の命を大切にするということ

お釈迦様はお生まれになってすぐ「天下唯我独尊」というお言葉を発せられました。

これはややもすると、エゴイスティックな発言と捉えられがちですが、実際の解釈は異なります。

これは「真実」に関する発言であったんですね。

というのも、先ほども言いましたように真実の世界には「自分」というものがありません。

人間活動一つとっても、「自分」で呼吸をしておりませんし、食べたものすら「自分」で消化できません。様々な肝臓器官が自分が寝ている間でも活動してくれるから消化できるわけです。

例えば「息を吸ったら吐く」これが呼吸ですが、自分でその呼吸をこれまでに「何度」も行ってきたのでしょうか?

そしてその呼吸を今後の人生も「自分」で行っていくのでしょうか?

とてもではないですが、何億回にも及ぶ呼吸をこれまで「自分」でしてきたとは思えないし、これからも「自分」でやっていくとは思えません。

「自分」でこの「呼吸」をこれからもやるとなったら途方に暮れてしまう事でしょう。

「自分」ではなく「無意識」で行うから、これからの長い人生であっても呼吸をしつづけることができるわけで、「寝ている間」にも呼吸ができるわけです。

またそもそも大自然が生み出してくれる「酸素」があるから「呼吸」ができるわけで、そこには「自分」なんてものは一切挟まれないんです。

そのようにこの世界には「自分」というものがないんですね。命に線引きなどできないんです。私はあなたで、あなたは私。

「俺の命」、このような考えは人間の意識が作り出した「概念」に過ぎないというのが良く分かるんです。

自分というのは単なる概念なんですね。それは存在しておらず、実際の世界には関与していないのです。

真実の世界というのは「自分」と「他」が「1つ」に重なった「同じに溶け合った命」なんです。

またこれは言い方を変えれば、この世界には「自分」しかいないという事にもなるんです。

だから無我なんですね。諸法無我なんです。

「他」と「自分」という風に2つに分けられないからですね。

そういった世界に我々は身を置いており、そういった世界に生きている。

これが真実の世界なんです。

「壁を殴れば自分の手が痛い」。「自動車音」や「カラスの鳴き声」が際限なくこの耳を出入りしている。

もしこれが「同じ命」でなかったら、「カラスの鳴き声」は聞こえるけど、「自動車音」だけは聞こえてこなかったかもしれませんよね?

しかしそんなことは決してない。

どんなものでも耳に入るし、目にも入るし、口にも入る。

そうした限りのない、「無限」の命を我々は生きている。無限とは際限がないということです。

ここでいうと、全てが自分で、全てが他だということです。

すべてが「1つ」に交わった命を生きているわけです。これが真実の命なんですね。この世界の真実なのです。

お釈迦様だけでなく、我々一人一人の命は「天下唯我独尊(ひとつに繋がった命)」だったというわけです。

なので、加えて「自分の命」をもっと大切にしてください、と言うんですね。

何故なら、

「自分の命」を大切にするということは、「他人の命」も大切にするということ

だからです。

大自然の教えを説いたのが仏教

「自分とは一体何なのか?」ということに着目したのがお釈迦様で、「仏教」の興りであります。

お釈迦様は「真実とは何なのか?」、「人の本当の生き方は何なのか?」を探求したわけであります。

そして大自然というのは決して「自我」で成り立っているわけではなく、「1つの命」として交わっているということを説いているんですね。

このように「仏教」は「大自然の教え」を説いているんです。この世界の真実を説いているんです。

自分の感覚こそがすべてという他の宗教とは、そういう点が異なっているんですね。

仏教の場合はそういう「感覚」以前、「自我」以前の「大自然の世界」を説いておられる訳です。

我々はいつも「自分の感覚」というものだけを頼りにし、感覚に任せて人生を歩んだり、宗教を選んだりしております。

そしてその感覚に何度も何度も騙されてしまうのです。

今回の『普勧坐禅儀』の内容に話を戻します。

「加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す」。

というのが今回の内容でしたが、我々の人生と言うのは本当に短い物です。

しかもせっかく人間として生まれてきて、こうして「仏法」と出会えることができたのにもかかわらず、中々それに従えません。この仏法を信じきれず、自分の感覚に振り回されてばかりおります。

この大変貴重な機会を無駄にし、本来の目的である成仏ができない。悩んだり、迷ってばかりいる。

なので、

道元禅師

どうか短く儚い人生をそういった感覚に振り回されずに歩んでください。

というのが今回の『普勧坐禅儀』の内容になるわけであります。

また、

儚くも短いこのたった一度の人生において真実に目覚められてください。

というお釈迦様の願いが詰まった、今回の内容となります。

まとめ

今回は、道元禅師がしるした『普勧坐禅儀』の、

「加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す」。

と言う部分を解説してきました。

最後に本記事のポイントを振り返りたいと思います。

本記事のポイント
  • 我々の一生というのは稲妻のようなものであり、たちまちに消えてなくなってしまう。それほど儚い物である。
  • 須臾(しゅゆ)というのは時間の単位で今で言う「48分」を指す。
  • 人間の命は非常に短い。
  • 二度と「仏法」に出会う事ができないかもしれない。
  • 「仏法」生命の実物をよりどころにする。
  • 自分の命を大切にするということは、他人の命を大切にするということ。
  • 大自然の教えを説いたのが「仏教」

以上となります。

お読み頂きありがとうございます。

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