我々人間は概念を保有する生き物です。しかしそれは果たしてどういったものなのか?本来の生き方として見たときにこの概念巡りをしている人間に対し、どういったことが言えるのか?ということをお伝えしていきます。
これまで考えもしなかったという方も中にはいるでしょう。
この記事はあなたの「今」にも密接に関係している話です。
是非読み進めて頂ければと思います。
概念化とは?
まず前置きとしてこの世界に「私」はありません。この世界においては私という個体はなく、全てが1つの命として成り立っているということです。
例えば今こうしている間に鳥の鳴き声が聞こえたり、排ガスが臭ってくるのは、両者の間に命の境界線が一歳ないからです。ここでは鳥が私で、車が私だということですね。
つまりこの世界において「私が思う」ということがそもそも成り立たないわけです。今回の概念に関しても、それは自身にまつわる話ではなく、またそれは自分がやっていることではなく、大自然によって思わされているということです。
デカルトの言う「我思う故に我あり」とは全く異なる考え方ですね。
詳しくは以下の記事をご参考いただければと思いますが、この世界の成り立ちとしてこのような事実があるわけです。
それを踏まえ本記事に入っていきますが、そもそも「概念」とは一体どういう意味なのでしょうか?
ここで一旦wikipediaを覗いてみたいと思います。
wikipediaで「概念」と調べると以下のような注釈が出て参ります。
ふむ。
分かるような、分からないような話ですね。
言葉を選ばずにいうと、「概念」とは人の脳みそが勝手に作り出した実際には存在しないもののことです。
手に触れることができない。実際に差し出すことのできないものです。
これが概念です。またそれは存在していないものだということです。
例えば目の前に「リンゴ」を置かれて、大半の人はそれを「リンゴ」と認識するでしょうが、一部の人は「赤い物」と答えたりします。
概念にはこのように一定の形がありません。人の捉え方によって正体を自由に変え、あたかも存在しているように人に思わせる。これが概念です。一定の形がない。人によって捉え方がバラバラ。
なぜバラバラなのか?それは存在していないからです。つかみどころがないからですね。
これが概念です。
また我々はこの概念を元にコミュニケーションをとります。またそれは言葉があるからこそとることができるようになったものですね。
元々我々人間は言葉を持っておりませんでした。先祖であるホモサピエンスが外敵から身を守るために声を発した。それが言葉の始まりですが、その言葉を駆使して仲間に敵の位置や、餌のありかなどを共有することができるようになった。
これが概念のおこりです。
そして今はこの概念や言葉のおかげで、こうした便利な社会を形成するまでにいたり、生物界で頂点に君臨するまでに至ったのです。
なので概念とは、言い方を変えれば「言葉」だということですね。
例えば先ほどの話であれば「りんご」という言葉を覚えることによって、我々はそれをりんごだと認識できるわけです。
そうやって、お互いにその共通の言葉で、共通の認識を持ち、コミュニケーションを図ることができていく。要するに言葉によって生まれる認識のやり取りが概念なのです。
そもそも言葉がなければ我々はそれが何なのかわかりません。
例えば生まれたばかりの赤ん坊はそれをりんごだと認識できないといったことです。
そこで次第に言葉を覚えて、ようやくそれが「りんご」だと認識できるようになる。
そしてそのりんご取って!とか、そのりんご美味しそう!とか、こういったコミュニケーションを取れるようになるわけですね。
言葉によって概念は生み出され、その言葉によってコミュニケーションがなされるわけです。
しかしその概念とは事実ではないという点が肝心なのです。
そもそもその「りんご」と名付けたものには本来、正体がありません。一定の形がないわけです。
なぜなら「それ」は1秒ごとに姿を変えているからです。
1秒前のりんごと、1秒後のりんごとでは確実に1秒後のりんごの方が何かしらの養分を失っているわけです。
それが正確な在り方であるわけです。
要するに言葉というのは正確ではないんです。概念というのは正確ではないのです。事実に交わることがない。大自然に関与することがない。これが概念であり、言葉なのです。
それなのに我々はその言葉や、概念が全てだと思っている。
単なる人間上だけで生まれた本来存在しないコミュニケーションツールであるのにもかかわらず、それが本来の物事の正体だと思っている。全てだと思っている。
しかしそれは「架空物」なので、それに頼るということは実に危ないことなのです。それに概念は存在しない上、人によって捉え方が異なるからです。
ある人は良かれと思ったことでも、別のある人は悪く捉えたり。人によって捉え方が異なります。
そこから双方に軋轢が生まれ、諍いが起こるわけです。
物事に対し、名前をつけたり、限定化していくこと。これが概念であり、言葉の便利な点です。それによって我々人間はこうして今も便利な生活をすることができるようになりました。
しかしそれは本来の実物とは直接的な関係はないということ、あたかも存在していると思わせますが、実際には存在していないものだということを抑えておかなければなりません。
諸法無我、この世界に俺なんてものはない。
先ほどのりんごの話がありましたが、我々人間は言葉による概念で、頭の中で線引きをし始める生き物です。
物事に名前をつけたり、あるいは本来できないにもかかわらず、物事に価値をつけ、そこの価値を比較したり、自分の「価値観」で物事の価値を決め、判断をする生き物です。
本来物事に線引きなどできないんですね。物事に価値をつけるなんてことはできないんです。
ここで少しだけ冒頭の話に戻りましょう。
我々はよく「俺の命」ということをしきりに言います。俺が思った!とか、俺の成果だ!とか。
例えば今この「俺」を生かしている事柄の1つに「呼吸」がありますが、その呼吸に関しては酸素がないとできないわけですね。
しかし今こうやって無条件で行っているこの呼吸において、その元となる酸素は一体どこからきているものでしょうか?
市外?県外?はたまた国外?その発生元に関して残念ながら正確なところはわからないわけですが、もし本当に俺の命という限定的なものがあるとすれば、我々は即座に窒息死してしまうはずです。
しかしそうはならないわけです。
縦横無尽に自分の命が展開している。だからこそこうして縦横無尽にいつどこでも酸素をいただけるわけです。
呼吸1つとっても、ここからここまでが俺の呼吸という限定ができないわけですね。
全世界に溶け合う自分。全世界と一体の自分。これが自分という存在なんですね。
また同じく冒頭でも述べたように、いつでもどこにいてもカラスやサイレンの音が俺の耳を震わせます。それはカラスが鳴いたから、俺の耳が鳴ったということで、カラスによって俺の命が生じたということです。つまりカラスが俺の耳の鼓動であり、俺そのものだということです。
これが事実のわけですね。仏教はこの絶対的な事実を決して無視しません。「諸法無我」という有名な言葉にもあるとおり、この教えこそ仏教において最も重大な教えのわけですが、この世界に俺なんてものは存在しないのです。
本来は全てが1つに繋がっている俺なのです。自我ななんてものはどこにもないんですね。
しかし我々は頭が良いですから、スパッと「頭の中」で線引きをし、「私と他人」、あるいは「出家と在家」など、そういう線引きをしてしまう、できてしまう生き物なんですね。
実に器用です。
我々には生まれ持ったこの「脳みそ」という思考を司る媒体があります。
そして色々の事を常に考え、常に線引きをして分別をしております。
ただそれすらも大自然によってもたらされたものだということを忘れてはいけません。この世界では「俺が思う」ということがそもそもあり得ないのです。
概念化とは?例①「五感全てを駆使して、鐘の音を聞いている」
ここで少し、私の生家であり、実家のお寺のお話をさせていただきます。
9月のお彼岸の頃というのは「金木犀の花」のかおりが漂う時期であります。
そのお彼岸中お寺では、「毎朝6時」から鐘を7つ撞きます。
私も何度か手伝いとしてその時期に鐘を撞くことがありました。
時間が経つと徐々に朝日がのぼってきて、「目」でみる視界も段々明るくなってきます。
そしていざ「鐘」を撞き始めるころ、「鼻」では「金木犀の花」のかおりを嗅いで、「耳」では鐘の音を聞いているというような状況になっています。
人間は「五感」を通してこのような状態を無意識に行じています。
この事を「人に説明する際」あなたならどのように説明しますか?
恐らく、
- 耳で鐘の音を聞き
- 鼻で木犀の香りを嗅いで
- 目で、段々白じんでくるこの世界を見ている
という風にその時の状況を順を追って、またセグメントしてから説明するはずです。
このように物事を一つ一つ脳の中で分けて、その事を「概念」として他人にイメージを持たせる事で初めて「説明」がつきます。
しかし実際は、「耳」で「鐘」の音を聞いている間に「鼻」や、「目」が休んでいるかというとそうではありません。
常に五感を巡らせて、五感の全ての力を発揮して「鐘の音を聞いている。」あるいは「金木犀の花」のかおりを嗅いでいる。
五感の全てを働かせて、皮膚感覚も全部をひっくるめて、夜明けのこの白じんでくる世界を経験している。
そう、つまりは「耳」でも「鐘」の音を聞いているのです。「鼻」でも「鐘」の音を聞いているんですね。
実際の物事というのは区別できないんですね。よって認識では捉えられないということなんです。

ただ「他人に説明したり」、「文章化したり」しようとすると、「目で白じんでくる世界を見て、耳で鐘音を聴き、鼻で金木犀の花のかおりを嗅いでいる」という以外表現の仕様がありませんから行うわけです。そしていつしかそういったことが定説となってしまった。
繰り返しになりますが、概念と実際の世界が交わることはありません。常に平行線を辿っているのです。
「実際の世界」というのは「全体」です。
全てが一つの「仏の命」として溶け合っている。
この世界では線引きがありません。この世界では評価もできないということですね。2つに分かれないのだから、こっちの方がいい、いやあっちの方がいい。そういった評価もつけられないのです。
例えば東京暮らしの方が楽しい、いや地方暮らしの方が楽しいとか。子供がいる生活の方がいい、いや独身の生活のほうがいいとかですね。そういった評価のしようがないのです。すべては今ここ、この自分と繋がっているからですね。全ては今ここ、この自分の展開だということです。
我々はどこにいようとカラスの鳴き声が聞こえてくる、こうした紛れもない真実の命をいつどこでもいただいているのです。いつどこでもたった1つへ繋がっているのです。
日常生活において、
- 全ての感覚を駆使し「朝ご飯」を食べている。
- 全生命を駆使し、「お手洗い」をしている。
- 宇宙全体を巻き込んで「スマートフォン」をいじっている。
ということです。
「坐禅」もそうです。この体、全ての命を通して「坐禅」をしているんですね。
この世界に個別はありません。自我はありません。
何かを説明するための概念で、概念とは単なる後付けにしか過ぎません。概念というのは決して事実と交わらないのです。
概念化とは?例②「良寛禅師」のエピソード
江戸時代に活躍した、越後(現在の新潟県)出身の「良寛さん(1758-1831」というお坊さんがいました。
この方は非常に有名な僧侶で、現代の仏教界においても絶大な影響を与えた人物です。
ここでは詳しくは解説しませんが、少しここでその「良寛」さんにまつわるエピソードをご紹介したいと思います。
この良寛さんは、人から本を借りたら全て「俺のもの」と書いてしまうんですね。
最低ですよね。(笑)
今だったら、器物損壊容疑で即逮捕です。
良寛さんにせっかくの思いで貸した本人は「良寛さん!なんで俺のものって書いてしまったのだ!」と思う訳ですね。
しかし良寛さんはその借りた「本」だけでなく、道端の木々、岩、全てのものに「俺の物、俺の物。」と書いてしまうんです。
つまり、良寛さんには「俺のもの」と「他人のもの。」という風に物事に境界線がない人だったんです。
決してこの良寛さんは、その人の物を盗もうと思ったわけじゃありません。
この世界に「境界線」は無い
真実の世界を体現されていたのです。ある意味正しい行いだったのです。
概念というのは「架空物」だということをその身をもって理解されていたのですね。
我々はややもすると、頭でしっかり線引きをし、「自分のもの」と「他人のもの」という風に物事を分けます。
これはコミュニケーションや約束こと、法律を守る上では欠かせない事であり、現代社会はそれで成り立っていると言われればその通りです。
しかし、実際の「物」だったり、「命」というものには「俺のもの」、「他人のもの」という様な明確な基準はありません。
現在、過度な「線引き」によって始終して、苦しんでいるのが我々の「日常生活」であります。
「頭」で考えて、「線引き」をして、「分別」をして、「物を分けて」、これは「あなたのもの、これは私のもの」ということで今の世の中は成り立っている訳ですが、この線引きというのは頭の中の話でしかなく、「実際の命」においては線引きはできないわけですね。
概念化とは「大自然の行為」を「人間の行為」に変えてしまう事
しかし混乱させてしまうようですが、「思う」というのは、これは「自分」がやっているわけではありません。
そもそもこの世界には「俺」がないわけですから。俺が思うということがまずあり得ないのです。
それは大自然によってもたらされた、大自然の所業だということですね。
この「思う」という行為はやめようと思ってもやめられない、
「生命活動」であり、「生命の実物」
なのです。
先ほどは「概念」というのは人間にしかできない「実体のない行為」で、「大自然の行い」ではないと説明しました。
どういう事かきちんと説明します。
つまり「概念化」と「思う」ということは似ているようで180度全く違うものです。
例えばあなたが今、この説明を受けて「なんだよ、どういうことだよ?」と思ったとします。
その「思い」はあなたが果たして行った事でしょうか?
恐らく私のこの文章を読んで無意識のうちに浮かんできた「思い」だったはずです。
つまりあなたが「思いたくて思った」訳ではなく、それはどこからか突然やってきた「大自然の行い」であったのです。
「思う」という行為は仕方のないこと。生命の実物です。仏の行いです。
「どのように思う事」も、「何を思う事」も、これは自分がやっている事では無く、「大自然の方」から突然、縦横無尽にやってくるものです。
要するに、大自然によって思わされていることなのです。
「坐禅中」であっても、破廉恥な事を思ったり、卑猥なことを思うようにこればかりは「自分」がやっているものではない為どうしようもありません。
またゴリラやチンパンジーは我々と同じく知能レベルが高いと言われております。彼も同じくこの思量を受けがう生命体で、普段からこの思量を行っている存在です。
しかし彼らはきちんとこの思量と向き合っているわけです。彼らはこの「思い」を本来の生命の実物のみにとどめておくことができるわけですね。
一方我々というと、仮に大自然に思わされていることだとしても、どんどんその自分勝手の思量を行ってしまう。生命の実物、大自然の命から離れていってしまう。
これが要するに概念だということです。
ゴリラやチンパンジーもそれが「食べ物」であるくらいには認識ができるでしょう。しかし言葉を持たない彼らはそれを限定化することがありません。
本来のそれを本来のあり方としてだけに捉えておくことができますし、そこからコミュニケーションなんてものも取ろうとしません。
つまり概念や言葉とは、
「大自然の行い」を「大自然の行い」ではなくしてしまう。
という風にも言い換えられるでしょう。
この点をきちんと踏まえなければなりません。
我々の日常生活においてはこの「概念化」が全てです。
つまり「大自然の行い」を「人間の行い」に変えてしまう行為。
「かっこよくなりたいな」と思って、「服を購入したり」すること。
「お金持ちになりたいな」と思って、「パチンコに行く事。」
時にはその思いが誰かを傷つけてしまったりもする。
概念に引き摺り回される。それでは本末転倒なのです。
我々の命は一つとして繋がっている「仏の命」です。
実際は決して二つと分かれない命を生きており、そのような仏の世界に身をおいて生きております。
物事を限定化したり、評価したり、区別したりすることはできないんですね。
「坐禅」は「仏行」と言われる理由として、そんな概念とは関係のない本来の仏の世界を行じるから「仏行」、本来の世界を行じるからそのように呼ばれるわけです。
しかしその坐禅をしている間でにも様々な思いが起こります。
もう手のつけようがないくらいに起こります。
しかしそれは仕方のない事ですね。なぜならそれは生命の実物だからです。自分がやっていることではないからです。それこそ大自然の所業だからです。
この「坐禅」においてはその無限に起こる「概念」を形成化できません。
「大自然の行い」を「大自然の行い」のままにとどめておく事ができます。
思いが浮かんで来ても「浮かんできっぱなし」にする。それでいいのです。そして気が付けばその思いは「スーッ」とどこかへ消えてしまう。それを追うとするから間違いが起こる。生命の実物を人間模様の概念に変えてしまう。
概念は人と人がうまく人間関係を築くうえで重要な作業ですが、それはあくまでもツールでしかなく、我々の実際の「命」とは、全てが1つに繋がったこの真実の世界とは、無関係な話となります。
そこを踏まえることが出来れば、我々人間はもう少し安心して生きていく事が出来るのではないでしょうか。
概念との向き合い方。これは非常に重要な問題できちんと向き合いたいですね。
以上お読みいただきありがとうございました。

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