我々「人間」は概念を保有する生き物です。しかしそれは果たしてどういうことなのか?
それは本来のあり方として見たときに、この概念巡りをしている人間に対しどういったことが言えるのか、ということをお伝えしていきます。
これまで考えもしなかったという方も中にはいるでしょう。
この記事はあなたの「今」にも密接に関係している話です。
是非読み進めて頂ければと思います。
我々が生きるこの世界
まず前置きとしてこの世界に「私」はありません。それはこの世界においては私という個体はなく、全てが1つの命として成り立っているということです。
例えば今こうしている間に鳥の鳴き声が聞こえたり、排ガスが臭ってくるのは、両者の間に命の境界線が一歳ないからです。ここでは鳥が私で、車が私だということですね。
もし仮に「私という命」という「線引き」があったとしたら、それは聞こえてくるはずもないし、臭ってくるはずはないのです。
しかしそうではありません。
全てが1つとして成り立っている。1つに溶け合っている。
つまりこの世界においては「全て」という存在、これしかないのです。
ここでは「私が思う」ということがそもそも成り立たないわけです。それは「私」という特定のものが存在しないからです。あるいは「思う」という特定のものが存在しないからです。
全てが一つなので、そこでいうなら、思いっぱなし、私っぱなしだということです。行く道がない、それを待っている対象もない。つまり掴めないものだということです。もしくは常に掴んでいる、あるいは常に掴めないものだということです。
A=B=C=D=Z、だということです。
私がいない、あるいは「思う」ということがないわけですから、我々が今思っていることというのは、実は個人所有の概念などではなく、全体の動き、あるいは他の動き、他の命の産物だということです。大自然の命だということです。
大自然っぱなし。真実っぱなし。ただそれだけというわけです。もしくは全体として常に流れ続けている、そこに留まっていない。それが「こう」だと言えるものはないということです。
デカルトの言う「我思う故に我あり」とは全く異なるというか、そう思うとむしろ「その考え方」が輝いてくるように思えてくるわけです。
区切りなどないのです。特定がないのです。自分などないのです。
詳しくは以下の記事に譲りたいと思いますが、この世界の成り立ちとしてこのような事実があるわけです。
それを踏まえて果たして「概念」とは一体なんなのでしょうか?
概念とは?
ここで一旦wikipediaを覗いてみたいと思います。
wikipediaで「概念」と調べると以下のような注釈が出て参ります。
ふむ。分かるような、分からないような話ですね。
まず「概念」とは人の脳みそが勝手に思い描いているものだということです。
本来一辺倒のこの世界、ここからここまでというものがない世界、特定のものが生まれない世界のわけですから。
そのような環境下で、我々の発達した脳によって、あえてそのようなカテゴリーを作り出しているもの。例えばこれはチョコレート、これは財布、といった区切りをつけているもの、つけやすくしているもの、それが「概念」です。
しかし繰り返しになりますが、本来は全て1つにつながっております。それをあえて区切るもの、それにあえて人間同士の取り決めを作っているもの。それが概念であり、またその手法を概念化と言います。
時に、目の前に「リンゴ」を置かれて、大半の人はそれを「リンゴ」と認識するでしょうが、一部の人は「赤い物」と答えたりします。
概念にはこのように一定の形がありません。
概念化という本来ではないものを引っ提げている。さらにそのような不可解なものを持ち出して演じているのが我々の人間生活なのです。あるいは社会ルールであり、コミュニケーションなのです。
いかに危険か、ということがこれでわかるわけです。
概念とは言葉によるもの
またそのようにさせたのは「言葉」の影響が大きいということです。
元々我々人間は言葉を持っておりませんでした。先祖であるホモサピエンスは外敵から身を守るために声を発した。それが言葉の始まりですが、その言葉を駆使して仲間に敵の位置や、餌のありかなどを共有することができるようになった。
これが概念のおこりです。
時に、それは人間しか扱うことができず、またとても便利なものです。
今はこの概念や言葉のおかげで、こうした便利な社会を形成するまでにいたり、生物界で頂点に君臨するまでに至ったのです。
なので概念とは、言い方を変えれば「言葉」だということですね。
例えば先ほどの話であれば「りんご」という言葉を覚えることによって、我々はそれをりんごだと認識できるわけです。
そうやって、お互いにその共通の言葉で、共通の認識を持ち、コミュニケーションを図ることができていく。要するに言葉によって生まれる認識のやり取りが「概念」なのです。
そもそも言葉がなければ我々はそれが何なのかわかりません。認識ができないのです。概念すら持つことができないのです。
例えば生まれたばかりの赤ん坊はそれをりんごだと認識できないといったことです。
そこから次第に言葉を覚えて、ようやくそれが「りんご」だと認識できるようになる。
そしてそのりんご取って!とか、そのりんご美味しそう!とか、こういったコミュニケーションを取れるようになるわけですね。
言葉によって概念は生み出され、その言葉によってコミュニケーションがなされるわけです。
しかし繰り返しになりますが、そのような概念や言葉とは事実ではないという点を抑えることが肝心です。それらは単なる説明書のようなものだということです。ゲーム本体ではないということです。
そのゲーム本体というのが、本来のこの世界のことです。
そしてその世界というのは繰り返しになりますが、全てがつながっており、ここからここまでが「俺の命」というものが規定できません。概念がそこに混じることはできないのです。
また例えば我々がよく食しているあの「お米」というのは、堆肥の存在、日光の存在、水の存在、虫たちの存在によって、あのような形になるわけです。つまり「お米」というのは太陽でもあるわけで、虫でもあるわけなのです。
そのような状態で、「それがこれだ」といい当たるのは不可能なのです。
あるいはその「りんご」と名付けたものをよく観察すると、1秒ごとに姿を変えているのが変えているのがわかります。
1秒前のりんごと、1秒後のりんごとでは確実に1秒後のりんごの方が何かしらの養分を失っているわけです。
常に言い当てることなどできないのが、この世界の物事だということです。
こうしたルール、世界の前提があるわけです。そこに対し言葉の起こりでもって、人間たちによって概念というのは好き勝手に適用されているわけです。
要するに言葉というのは正確ではないんです。概念というのは正確ではないのです。事実に交わることがない。大自然に関与することがない。これが概念であり、言葉なのです。
それは単なる後付けでしかないということです。ゲーム本体の説明書でしかないというわけです。
それなのに我々はその言葉や、概念、説明書が全てだと思っている。
単なる人間上だけで生まれた本来存在しないコミュニケーションツールであるのにもかかわらず、それが本来の物事の正体だと思っている。全てだと思っている。
しかしそれは「架空物」です。それに頼るということは実に危ないことなのです。さらに人によって捉え方が異なるからです。
ある人は良かれと思ったことでも、別のある人は悪く捉えたり。人によって捉え方が異なります。
そこから双方に軋轢が生まれ、諍いが起こるわけです。
物事に対し、名前をつけたり、限定化していくこと。これが概念であり、言葉の便利な点です。それによって我々人間はこうして今も便利な生活をすることができるようになりました。
しかしそれは本来の実物とは直接的な関係はないということ、あたかも存在していると思わせますが、実際には存在していないものだということを抑えておかなければなりません。
諸法無我、この世界に俺なんてものはない。
先ほどのりんごの話がありましたが、我々人間は言葉による概念で、頭の中で線引きをし始める生き物です。
物事に名前をつけたり、あるいは本来できないにもかかわらず、物事に価値をつけ、そこの価値を比較したり、自分の「価値観」で物事の価値を決め、判断をする生き物です。
本来物事に線引きなどできないんですね。物事に価値をつけるなんてことはできないんです。
我々はよく「俺の命」ということをしきりに言います。俺が思った!とか、俺の成果だ!とか。
例えば今この「俺」を生かしている活動の1つに「呼吸」がありますが、その呼吸に関しては酸素がないとできないわけですね。
しかし今こうやって無条件で行っているこの呼吸において、その元となる酸素は一体どこからきているものでしょうか?
市外?県外?はたまた国外?その発生元に関して残念ながら正確なところはわからないわけですが、もし本当に俺の命という限定的なものがあるとすれば、我々は即座に窒息死してしまうはずです。
しかしそうはならないわけです。
縦横無尽に自分の命が展開している。だからこそこうして縦横無尽にいつどこでも酸素をいただけるわけです。
呼吸1つとっても、ここからここまでが俺の呼吸という限定ができないわけですね。
全世界に溶け合う自分。全世界と一体の自分。これが自分という存在なんですね。
また同じく冒頭でも述べたように、いつでもどこにいてもカラスやサイレンの音が俺の耳を震わせます。それはカラスが鳴いたから、俺の耳が鳴ったということで、カラスによって俺の命が生じたということです。つまりカラスが俺の耳の鼓動であり、俺そのものだということです。
これが事実のわけですね。仏教はこの絶対的な事実を決して無視しません。「諸法無我」という有名な言葉にもあるとおり、またこの教えこそ仏教において最も重大な教えのわけですが、この世界に俺なんてものは存在しないのです。
本来は全てが1つに繋がっている俺なのです。自我ななんてものはどこにもないんですね。
そこを我々は頭が良いですから、スパッと「頭の中」で線引きをし、「私と他人」、あるいは「出家と在家」など、そういう線引きをしてしまう、できてしまう生き物なんですね。
実に器用です。
確かに我々には生まれ持ったこの「脳みそ」という思考を司る媒体があります。そして色々の事を常に考え、常に線引きをして分別をしております。
しかしそれは事実ではない。この世界では「俺が思う」ということがそもそもあり得ないのです。
これを踏まえなければなりません。
五感全てを駆使して、鐘の音を聞いている
ここで少し、私の生家であり、実家のお寺のお話をさせていただきます。
9月のお彼岸の頃というのは「金木犀の花」のかおりが漂う時期であります。
そのお彼岸中お寺では、「毎朝6時」から鐘を7つ撞きます。
私も何度か手伝いとしてその時期に鐘を撞くことがありました。
時間が経つと徐々に朝日がのぼってきて、「目」でみる視界も段々明るくなってきます。
そしていざ「鐘」を撞き始めるころ、「鼻」では「金木犀の花」のかおりを嗅いで、「耳」では鐘の音を聞いているというような状況になっていることに気づきます。
人間は「五感」を通してこのような状態を無意識に行じています。
この事を「人に説明する際」あなたならどのように説明しますか?
恐らく、
- 耳で鐘の音を聞き
- 鼻で木犀の香りを嗅いで
- 目で、段々白じんでくるこの世界を見ている
という風にその時の状況を順を追って、またセグメントしてから説明するはずです。
このように物事を一つ一つ脳の中で分けて、その事を「概念」として他人にイメージを持たせる事で初めて「説明」がつきます。
しかし実際は、「耳」で「鐘」の音を聞いている間に「鼻」や、「目」が休んでいるかというとそうではありません。
常に五感を巡らせて、五感の全ての力を発揮して「鐘の音を聞いている。」あるいは「金木犀の花」のかおりを嗅いでいる。
五感の全てを働かせて、皮膚感覚も全部をひっくるめて、夜明けのこの白じんでくる世界を経験している。
そう、つまりは「耳」でも「鐘」の音を聞いているのです。「鼻」でも「鐘」の音を聞いているんですね。
実際の物事というのは区別できないんですね。常に無限定なのです。限定できないものはどんなに頑張っても限定はできません。よって認識では捉えられないということなんです。

ただ「他人に説明したり」、「文章化したり」しようとすると、「目で白じんでくる世界を見て、耳で鐘音を聴き、鼻で金木犀の花のかおりを嗅いでいる」という以外表現の仕様がありませんから行うわけです。そしていつしかそういったことが定説となってしまった。
繰り返しになりますが、世界は無限定です。限定不可です。線引き不可なのです。
よって概念と実際の世界が交わることはありません。常に平行線を辿ってしまうのです。
「実際の世界」というのは「全体」です。
全てが一つの「仏の命」として溶け合っている。
この世界では線引きがありません。この世界では評価もできないということですね。2つに分かれないのだから、こっちの方がいい、いやあっちの方がいい。そういった評価もつけられないのです。
例えば東京暮らしの方が楽しい、いや地方暮らしの方が楽しいとか。子供がいる生活の方がいい、いや独身の生活のほうがいいとかですね。そういった評価のしようがないのです。すべては今ここ、この自分と繋がっているからですね。全ては今ここ、この自分の展開だということです。
我々はどこにいようとカラスの鳴き声が聞こえてくる、こうした紛れもない真実の命をいつどこでもいただいているのです。いつどこでもたった1つへ繋がっているのです。あるいは実際に聞こえなくても「1つ」につながるようになっているのです。
日常生活において、
- 全ての感覚を駆使し「朝ご飯」を食べている。
- 全生命を駆使し、「お手洗い」をしている。
- 宇宙全体を巻き込んで「スマートフォン」をいじっている。
ということです。
「坐禅」もそうです。この体、全ての命を通して「坐禅」をしているんですね。
この世界に個別はありません。自我はありません。
何かを説明するための概念で、概念とは単なる後付けにしか過ぎません。概念というのは決して事実と交わらないのです。
「良寛禅師」のエピソード
江戸時代に活躍した、越後(現在の新潟県)出身の「良寛さん(1758-1831」というお坊さんがいました。
この方は非常に有名な僧侶で、現代の仏教界においても絶大な影響を与えた人物です。
ここでは詳しくは解説しませんが、少しここでその「良寛」さんにまつわるエピソードをご紹介したいと思います。
この良寛さんは、人から本を借りたら全て「俺のもの」と書いてしまうんですね。
最低ですよね。(笑)
今だったら、器物損壊容疑で即逮捕です。
良寛さんにせっかくの思いで貸した本人は「良寛さん!なんで俺のものって書いてしまったのだ!」と思う訳ですね。
しかし良寛さんはその借りた「本」だけでなく、道端の木々、岩、全てのものに「俺の物、俺の物。」と書いてしまうんです。
つまり、良寛さんには「俺のもの」と「他人のもの。」という風に物事に境界線がない人だったんです。
決してこの良寛さんは、その人の物を盗もうと思ったわけじゃありません。
この世界に「境界線」は無い
真実の世界を体現されていたのです。ある意味正しい行いだったのです。
概念というのは「架空物」だということをその身をもって理解されていたのですね。
我々はややもすると、頭でしっかり線引きをし、「自分のもの」と「他人のもの」という風に物事を分けてしまいます。
これはコミュニケーションや約束こと、法律を守る上では欠かせない事であり、現代社会はそれで成り立っていると言われればその通りです。
しかし、実際の「物」だったり、「命」というものには「俺のもの」、「他人のもの」という様な明確な基準はありません。
その過度な「線引き」によって始終して、苦しんでいるのが我々現在の「日常生活」であります。
「頭」で考えて、「線引き」をして、「分別」をして、「物を分けて」、これは「あなたのもの、これは私のもの」ということで社会というのは成り立っている訳ですが、この線引きというのは事実ではなく、また頭の中の話でしかなく、「実際の命」においては線引きはできないわけですね。
本当の概念化とは
しかし話を混乱させてしまうようですが、「思う」というのは、これは「自分」がやっているわけではありません。
そもそもこの世界には「俺」がないわけですから「俺が思う」ということがまずあり得ないわけです。
存在していようが、いまいが、それは大自然によってもたらされた、大自然の所業だということですね。
この「思う」という行為は、自分ではどうすることもできない、やめようと思ってもやめられない、
「生命活動」であり、「生命の実物」
なのです。
つまり思うということも、概念というのも、大自然の行為、仏の実物、生命の実物だということです。
私は思わされている、やらされている
先日私は電車に乗ろうとしました。東京は、大森駅から新橋駅に向かうために「京浜東北線」に乗ろうと思ったんです。
しかし予定していた電車がどうやら前の駅で何某のハプニングにあったらしく、全く到着しません。駅のホームは気が付けば人でごった返してしまい、そこら中から「舌打ち」が聞こえてくるような始末です。
だんだんと私もイライラしてきて、なぜこのようなことになっているのか、原因はなんなのか、またこのままでは予定の時間に間に合わないのではないか。そのような焦りや、怒り、不安の思いが巡りました。
大体20分後くらいでしょうか、ようやく電車が到着しました。
さらにその際、我先にと思ったのが仇となり、つまずいてしまい、転倒してしまいました。
とても恥ずかしい思いをしました。同時に損した気分にもなりました。
そもそも電車が遅れなければそのような思いを抱くことも、転倒することもなかったわけです。
もちろん自分の短気で、せっかちな性格のせいだと言われればそれまでなのですが、しかしわたしにしてみれば、そうさせたのは紛れもなく電車の遅延です。またその原因です。
誰が犯人だ、なぜこうなった。
しばらくはそうした、他責の思いが巡りました。怒りに支配されました。
たった朝の数十分間の間にもかかわらず私は、非常に多くのことを思い、そして行動をしたわけです。
しかし今思うと、それはまるで自然災害のようなものだったのです。どうすることもできないことだったのです。
例えば私がその時間のその電車に乗らないといけなかった理由は、私に予定があったからです。そこで会わなければいけない人の存在があったからです。またその人が「たまたま」東京に来ていて、どうしてもその日しか暇が作れない、そのような諸事情があったからです。
要は「自分以外の存在」によって私はその場に立たされていたわけです。
また肝心の電車が止まったのは、人が急な風に煽られてホームに転落したのかも知れない。あるいは持病を抱えた人がいて、体調が急変してしまったのかも知れない。いつもその人は、別の曜日に医者に行っているのに、担当医が休みで、たまたまその日がちょうどその振替の日だったのかもしれない。
結局原因はわかりませんでしたが何かが起こったのです。そしてその「何か」というのは、根深い因縁が複雑に絡まり合った姿だったということです。
物事というのは、全てそのような、収拾のつかないしがらみに支配されて起こっております。
その時々に因縁たちが、出会い、そしてまた出会い、結合する。そして時に自分に関わる物事として登場する。
自分の出来事というのは「他」なのです。つまり他によって生み出されるものなのです。
またその他においても、先ほども述べたようにさらにその他によって生み出されている物事であり、そこでは収拾のつかないしがらみに支配されている。
常にそのようなことが起こり続けているというのがこの世界であり、あるいは「私」という出来事なのです。
我々からすれば予期せぬことも、あるいは万に一つのことも、結局はそのような起こり方をしていて、他によって生み出された単なる物事にしか過ぎません。
無論、今こうして日常だと思っている朝の風景、机の上でPCをカタカタ打つこと、コーヒーを飲むこと。こうした普段の日常も、同じような仕組みをしております。
1つでも要素がなくなれば、あるいは過程や要因が崩れたりすれば、一方でそこに何かが加わったりすれば、決してそうなることはありません。
そう思うと、全ては万に一つ。他に支配されている。当たり前のことなどないのです。
その中にあって我々の「思い」や「概念めぐり」だということです。
よって私のその思いや概念をはじめ、その行動というのは、常に他や、その他のさらに他、因縁の中の因縁によってもたらされるものだったのです。まさに自然災害だったのです。
我々は常に自然災害に出会っているのです。あるいは行っているのです。
「思う」という行為は仕方のないこと。どうすることもできないこと。あるいは生命の実物です。仏の行いです。
「どのように思う事」も、「何を思う事」も、これは自分がやっている事では無く、「大自然の方」から突然、縦横無尽にやってくるものです。要するに、大自然によって思わされていることなのです。
「坐禅中」であっても、破廉恥な事を思ったり、卑猥なことを思うようにこればかりは「自分」がやっているものではない為どうしようもありません。
この「思い」こそ生命の実物、仏の所業、坐禅なのです。
例えばゴリラやチンパンジーは我々と同じく知能レベルが高いと言われております。彼も同じくこの思量を受けがう生命体で、普段からこの思量を行っている存在です。
しかし彼らはきちんとこの思量と向き合っているわけです。つまり彼らはこの「思い」を本来の生命の実物のみにとどめておくことができるわけですね。
一方我々というと、仮に大自然に思わされていることだとしても、そこに自分勝手に垢をつけてしまう。そして生命の実物、大自然の命から離れていってしまう。
これが我々に息苦しさを与えているんですね。
ここが大切なのです。
確かにこの思いや、概念というのも仏の所業です。自分ではどうすることもできない、大自然の産物です。
しかしそこに手を加えたり、それを乱用してはいけません。それを留め、正しく向き合うことが必要なのです。
ゴリラやチンパンジーもそれが「食べ物」であるくらいには認識ができるでしょう。しかし言葉を持たない彼らはそれを限定化することがありません。
本来のそれを本来のあり方としてだけに捉えておくことができますし、そこからコミュニケーションなんてものも取ろうとしません。
つまり我々は、
「大自然の行い」を「大自然の行い」ではなくしてしまう。
のです。
この点をきちんと踏まえなければなりません。
坐禅と概念
坐禅をしましょう。
「坐禅」においてはその無限に起こる「概念」を形成化できません。
坐禅を坐禅しておくことができるのです。概念を概念しておくことができる。仏を仏しておくことができる。大自然を大自然しておくことができる。生命の実物を生命の実物にしておくことができる。真実を真実しておくことができるのです。
要するに坐禅は、生命の実物、生命の正体、この世界の真実なのです。
だから「仏行」と言われるわけですね。
ただそれでも何があっても仏の手の内です。ここでは我々ができることというのは決められているわけです。全て仏にさせられてしまうわけです。
我々がこの世界で思うこと、あるいは行うことというのは全て仏にさせられていること、決められていることだからです。
しかしそれでも概念の正体との向き合い方。これは我々人間にとって非常に重要な問題なので、きちんと向き合いたいですね。
以上お読みいただきありがとうございました。



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