我々の生活は「葛藤」の連続だと思います。
今回ご紹介するキーワードは「葛藤」。
元々この「葛藤」は「禅の世界」から生まれた「言葉」だったんですね。
そして道元禅師と大変ゆかりのある言葉ということで、今回記事にしてみました。
それでは恒例の道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は「葛藤(かっとう)」についてお送りいたします。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
葛藤とは?
我々も普段からよく使うこの「葛藤」という言葉。
それではこの「葛藤」のそもそもの意味とはなんでしょうか?
そもそも「葛藤」とは「葛(かずら)」と「藤(ふじ)」が絡み合うことを言います。
「葛」は、はマメ科の蔓(つる)性の多年草で、茎は10m以上にもなります。(ちなみに、風邪によく効く葛根湯はこの根から作られていると言います。)
また「藤」ももマメ科の蔓(つる)性の落葉低木です。
特に「藤」は頑丈な「木」なので、両者が絡み合うと大変なことになってしまいますよね。
要するに枝や木が深くもつれ、絡みあう様子のことをこの「葛藤」と言い、人間生活に置き換えると「大変煩わしい思いをしている状態」や、「心の中で、あることについて悩み、自分と戦うこと」をこの「葛藤」といいます。
例えば人間でいう所のその「煩わしい」、「葛藤」している状態とは、
- 人と人が互いに譲らず対立し、いがみ合うこと。(親子の葛藤)
- 心の中に相反する動機・欲求・感情などが存在し、そのいずれをとるか迷うこと。(義理と人情とのあいだで葛藤する)
上記のような状態を指します。
葛藤とは正法眼蔵に出てくる言葉です。
冒頭でもお伝えした通り、今回の「葛藤」とは「禅の世界」から生まれた「言葉」です。
というのも道元禅師がおしるしになった「書物」、『正法眼蔵』の第38巻のタイトルこそこの「葛藤」で、それが語源となっているからです。
この「葛藤」の巻は、寛元元年(1243年)の7月に、宇治の興聖寺で道元禅師が大衆に向けて説いたものであるとされております。
その際「葛藤」とは、概念や文字、煩悩にとらわれ、「心の中で、あることについて悩み、自分と戦うこと」を意味するとお伝えしましたが、本来の「葛藤」の意味は、「正しい法が、師から弟子へ直接的に伝わること」を言います。
禅における葛藤
例えばお釈迦様が、「拈華瞬目(花をつまみあげてまばたきをする)」をし、摩訶迦葉尊者がそのお釈迦様の行動に対して「破顔微笑(お釈迦様の真意を理解して笑う)」した故事がありますね。
これこそ本当の「葛藤」です。
また達磨大師が慧可様を代表する四人の弟子に「皮・肉・骨・髄をえた」といった故事も、「葛藤」と呼べます。
道元禅師は、『正法眼蔵』、「葛藤の巻」の中で、先ほどの達磨様による「皮・肉・骨・髄」の故事と、その故事に対する趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師の見解を入念にとりあげ、「趙州こそ真の古仏である」とおっしゃっております。
つまり趙州禅師の見解こそ、「葛藤」の真意を理解しているとおっしゃっているんですね。
人間生活に置き換えると「大変煩わしい思いをしている状態」や、「心の中で、あることについて悩み、自分と戦うこと」をこの「葛藤」といいますが、本来の意味は、「正しい法が、師から弟子へ直接的に伝わること」を言うんですね。
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