損翁宗益禅師、大悟の経緯。「全て仏だった・・・」全部「仏」シリーズ②

昔、江戸時代に「損翁宗益」という曹洞宗の僧侶がおりました。その損翁禅師がかつて師匠にお仕えしたのは「蘭洲」というお方です。

どちらも有名なお坊様です。

当時の江戸時代は曹洞宗門下が衰退しきっていた時代だったと言われております。宗門僧侶の多くは、意欲的ではなく、また活動的でもなく、ただ時代に翻弄されるだけの、形だけの過ごし方をしておりました。

かたや同じく禅宗の黄檗宗では、宇治の黄檗山に「隠元禅師」が出世して「新風」を盛んに吹き込んでいた時代でもあります。

師匠とお仕えした「蘭洲禅師」は曹洞宗門下でありながら、その流れに魅了され、黄檗山へと走り、難なく「衣替え」、つまり改宗をしてしまいます。

損翁宗益は師匠であるその「蘭洲禅師」のことは心から慕いながらも、しかしそうした行いは仏道に反するとし、道元禅師の衣鉢をつけた以上は勝手に法を変えることなどしてはいけないと、こうした確固たる意思を持ち、その師匠に付き従うことはありませんでした。

以来、一人身としての活動を余儀なくされてしまうのです。

どこかに真の師匠、自分のことを諭したり、真の道に導いてくれる人はおらないか、そのような恩師を探す日々でした。

そんな折に石川県大乗寺に「月舟宗胡」禅師という名僧がいることを聞きつけます。彼の地で一人、衰微なる永平の宗風を復古しようと、熱心に吹唱しようとしていることを知るんですね。

きっとこのお方しかいない…!

急いでこの月舟宗胡の元を尋ね、その結果無事その門下に入ることを許されたわけですが、しかし思わぬことにそこで自身の「プライド」というものをズタズタに引き裂かれてしまいます。自分がこうだと思っていた「悟り」が不完全であると否定されてしまったのです。

実は月舟禅師自身も若い頃、同じようなことで苦労しました。それまで自信に満ち溢れていた月舟禅師は、当時瑞巌寺の「万安禅師」につき従いましたが、そこで同じように自身の悟りを取り上げられてしまったのです。

こうした経験をお持ちの方なのでした。

損翁宗益禅師はひどく落ち込んでしまいます。自分が絶対的にこうだと信じていた悟り。道元禅師の名の下、強く誇っていた悟り、それを否定されたのです。完膚なきまで打ちのめされてしまいました。

私はもうダメかもしれない、、

時は流れ、季節が「夏」にさしかかった折に、損翁禅師は「正法眼蔵」の浄書を発願します。そのようなことがあっても熱心に仏道修行に励んでいたのです。懸命に一人で黙々とその浄書に励んだのでした。

ちょうどそれが行われている庵室に月舟禅師が通りかかるんですね。すると禅師は何を思ったか、その庵室に転がっていた大和人形に対し、おもむろに「三拝」をし始めるのです。

損翁禅師はもちろん驚かれるわけですね。それまでそんな人形の存在に気づきもしなかった。ましてや綺麗な美しい人形でもなければ、丁寧に飾られているわけでもない。どこにもである平凡で、ゴミの如く転がっていた人形に対し、そのようなことをされたわけですから。

今も昔も、禅師がお拝をされるというのは「よっぽど」の理由があるからです。そのことも知っていたわけです。

それまで損翁禅師は、人形は子供の玩具だからといって粗末にしても良い、仏像は丁寧に扱わなければならない。こうした分別の心があったわけです。

また正法眼蔵の浄書より大切なことなどない、それ以上の仏道修行もないと思っていた。

物事を分け、相対化して評価し、あるいは坐禅をしたのちに悟りがあるという風に思っていた。彼の中であらゆる物事が2つに分かれていた。

月舟禅師はそのような奇体な行動を通し、坐禅や作務がすなわち弁道であり、それはすなわち悟り、またそれはすなわち成仏であるということをお示しになったのです。

つまり「全ては1つだ」ということをお伝えになったのです。全てはたった1つの仏としての動きだということ。1本道だということ。お釈迦さまの「天地同根万物一体、我と有情と同時成道」のことをお伝えになったのです。

この世界のあり方として、全て仏の恩恵の配下にあるわけです。つまり一秒ごとに風化していきます。つまり犬のうんちもダイヤモンドも同じようなあり方、全てこの世界の命、仏の命を平等にいただいているわけです。全て仏として生きているわけです。

あらゆる物事というのは全てそのようなあり方で段差がない。差別できない。仏様に向かって一直線の世界をなしているわけです。生き方をしているわけです。

全てが仏の一員として生きている。同属性で生きている。死してもなお、交わりながら生きている。全てが全体として生きている。

それもあって実際に、鳥の鳴き声がこうして自分の耳を震わせているわけです。真冬になればブルっと震えるわけです。この世界は全て一枚岩であり、全てが自己の展開、宇宙がそのまま自己のわけです。

「全体」、その人のみだったわけです。「仏」、その人のみだったわけです。

そこに転がっていた人形は「仏」であり、他でもない「自分」そのものだったのです。

決して2つに分かれないわけです。全てが1つとして生きているわけです。私というのは全てであり、仏のわけです。また全てといいうのも私であり、仏のわけです。

私の行動も、あなたの行動も全て全体としての動きなのです。1つとしての動きなのです。仏としての動きなのです。

例えば今コーヒーを飲んだり、何かを思ったりするということも仏の動きなのです。全体の動きなのです。あるいは導かれたことなのです。

どんな些細なことでも仏の行動、尊い仏の命なのです。

損翁禅師はこの月舟宗胡禅師の行いを通して忽然として大悟できたわけですね。それまでの疑いが晴れた。

これからは何があっても大丈夫だ。どこにいようと、何をしていようと、私は救われているのだ。

その様子を見て月舟宗胡禅師は微笑されたと言います。そして「正法眼蔵の浄写、すでに円成しおわんぬ」といって、認可を与えたと言います。

損翁禅師は20年間という苦しい歳月を経て、初めてこの月舟禅師によって真の認可を得ることができたのです。

この世界の全ては一枚岩、全てが仏のわけです。ここが最も肝心なところですね。「仏のみ」なんです。全てが仏なんです。

何かが聞こえることも仏、何かを思うことも仏、それら対象も仏、今そこにあるもの、人形も仏、寒さも仏、障子も仏。全て仏。

こんなにも暖かい世界のわけです。ありがたい世界のわけです。安心のみの世界のわけです。

そこを踏まえて我々は、どう生きていくかです。

しかしそれもとても簡単なことで、どう転んでも、どこを見ても、何をしても仏いっぱいなので、「どう踊るか」ということだけを考えればいいということです。

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