「法華経」には次のような内容があります。
私がこの上ない悟りを得て仏になったのは、実はすでに遠い昔のことで、数えることも言葉でいい表すこともできないほど遥かな過去のことなのです(ひろさちや訳)
「法華経」とは「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」の略称で、お釈迦様の教えの集大成とも言える教え、そのため大乗仏教における重要な経典です。「人は誰でも平等に成仏できる」という「万人成仏」の思想や、すべての生命に仏の心(仏性)が宿ることを説き、天台宗や日蓮宗などで中心的な教えとされています。
しかしそのような重要なお経の中にこうした話が出てくるのです。一方でこれは非常に確信めいたことだとも思うのです。
仏教の教えとは何かありがたいものなんじゃないか、特別なものなんじゃないか、神秘めいたものなんじゃないか。
誰もがそのような期待を持っていて、またそのためにお釈迦さまのことを崇拝し、少しでもお近づきになりたいと思っているわけです。当時の弟子たちもそうだったのだと思います。現代の我々もとても遠い存在、ありがたい存在、神のように崇めているわけです。
しかし当のお釈迦さまはこのように思っていたわけです。
お釈迦さまはお悟りを得てから、そのお悟りを誰かに引き継ごうとはしませんでした。その教えを誰かに教えようとしませんでした。何かに記録しようともしませんでした。実際に今残る経典というのは全てお釈迦さまの弟子たちによるものです。先の「法華経」もそうです。
お釈迦さまは何も「仏教」を特別視していたわけじゃないんですね。自身よりも優れた覚者はいるとさえ思っていたのです。私以前にも悟っていたものはいたし、私以降に仏教ができたわけでもない。私がやったことは何も特別なことじゃない。
いつの時代においても仏教はそこにあった。仏教とはこの世界のことだから、この世界の「真実」のことだから、そこにあり続けた。これからもあり続ける。私個人がどうこうという話ではない。大自然、真実そのもの。それに気づくことが仏教である。大切なのは「真実」である。世界である。
そのような思いがあったのではないでしょうか。だから何も残すようなことはしなかった。常に謙遜しておられた。
仏教など他に求めなくていい。それを求めるためにどこかに行かなくていい。ここは仏のみの世界で、至る所にその仏が展開している。見に見えるもの手に触れるもの全てが仏である。
「ブッダ」とは「目覚めた者」という意味です。この世界の真実に気付いたという人です。それに気づくか、気づかないかの違いで、真実というのは常にそこにあったわけですね。
ここも仏、日本も仏、イギリスも仏の地。インドやネパールだけが仏教の聖地のわけではない。
「おーい、と呼ばれれば返事をしてしまう」あるいは「疲れれば横になる。」生命の実物。この世界の真実。この私こそ仏の証拠。我々は意識的に気づこうとしなくてもそれを実際に体で実践しているのです。常に実践しているのです。私もブッダで、あなたもブッダなのです。牛も鳥もブッダなのです。
遥か昔から仏(真実)はそこにあったわけで、常にあったわけで、お釈迦さま以来のものではない。初祖もブッダではない。ブッダの前からも祖師はいた。真実はあった。これからもあり続ける。仏のみがあり続ける。残り続ける。
だからこそ、この「仏」にとどまってはいけない。お釈迦さまの教えにこだわってはいけない。何かに留まったり、こだわったりすること自体が真実に反することだからです。大自然にはないことだからです。それこそ仏を殺すことになるからです。
「真の仏教」は仏教すらも超えていかなければならない。お釈迦さまをも超えていかなければならない。
どうか私を壊し、私を越えていってほしい。時に疑おうが、仏教にそもそも気付きすらしなくても、あるいは無関心であっても安心して生きてほしい。人はキリスト教やイスラム教を信じたり、人生を謳歌してほしい。
これが仏の真の教えではないでしょうか。この世界の教えなのではないでしょうか。生きとしいける全てのものが安心して生きていける教えではないでしょうか。お釈迦さまもそのように思っていたのではないでしょうか。
お釈迦さまはまるで湖に降り立った「白鳥」のように思うのです。飛ぶ鳥跡を残さずではないですが、大自然の如くを信じ、それを誠に実践して生きておられた人なのではないでしょうか。
道元禅師は「坐禅」をされました。この「坐禅」こそがこの世界にあるもの。この世界の「存在物」、「大自然そのもの」だからです。
およそ良寛さんも「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という有名な詩を残しております。
仮に「ただ生きて死んでいくだけ」だとしても、それがいいのです。


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