本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。
今回は『普勧坐禅儀』本文の、
という部分を読んでいきたいと思います。
初めに前回の、 道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉚「水」と「針」、洗面器の中で何が起きているのか?のポイントをおさらいしましょう。
- 「指竿針鎚」というのは昔おられた仏祖方の逸話から来ている単語を繋ぎ合わせたもの。
- 「指竿針鎚」の「針」は龍樹菩薩と伽那提婆のエピソードからきている。
- 「自分」と「宇宙」を切り離す以上、そこには始まりと終わりがある。生と死がある。
- 「自分」が死ねば「宇宙」も死ぬ、本来は一つに繋がった世界。
- 「洗面器」に満々と満たされた「水」。その中に「針」を落とし込んでもそれぞれが一つとして溶け合っている。
それではポイントをおさらいしていただいた所で、本記事の内容に進んでいきたいと思います。

こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。
況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。
凡(およ)そ夫れ、自界他方、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶつちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。
終わり
指竿針鎚の「鎚」
今回はこの部分を解説していきます。
この「指竿針鎚」というのは、昔おりました仏祖方が残した逸話に由来して作られた単語です。
その逸話はそれぞれ「指」、「竿」、「針」、「鎚」が絡んでいるエピソードであり、それを一つにまとめたのがこの「指竿針鎚」というものなんですね。
道元禅師はその過去にあったエピソードをここで「一つにまとめて」、またそれを「指竿針鎚」とし、このように『普勧坐禅儀』に落とし込んだわけであります。
そして「拈(ねん)ずるの転機、」というのは その「指竿針鎚に出会うことで人生ががらっと変わる」ということです。
「転機」ですので、その出会いがあれば人生がらっと変わってしまうというのですね。この「指竿針鎚」はそれだけ重大な意味を持つということです。
過去の祖師方が残したこの「指竿針鎚」にまつわるエピソード。
その「指竿針鎚」のおかげで人生が、「転機」する。
それではどのように転機するのか?
それを知る為にも、そもそもこの「指竿針鎚」にまつわるエピソードとは何なのか?を知らなければなりません。
今回は最後の「鎚」にまつわるエピソードを見ていきたいと思います。
鎚沈を打っただけでお釈迦様の説法は終わってしまった
お釈迦様がある日、説法をするために高座に上られた時のことです。
お釈迦さまには多くの弟子がいて、その説法をその多くの弟子達が聞く訳ですが、その日もお釈迦様が説法をされるというので弟子たちが次から次へとゾロゾロやってきました。
またその説法を弟子たちは「立ちながら聞く」んですね。
今と違い昔は正式に説法を聞く際は「立って聞く」というのが正式とされておりました。
説法するお釈迦様だけが高座にて「坐禅」をしているわけです。
その会場は実に大勢の人達で覆い尽くされていたことでしょう。
その中に今や過去七仏に数えられる「迦葉仏尊者(かしょうぶつそんじゃ)」もおりました。
迦葉尊者はお釈迦さまの弟子です。付き人のようなこともしております。
お釈迦さまが説法されるときは付き添って、そのプログラムの進行役なども仰せつかっていたのかもしれません。
その当時も迦葉尊者が進行役を務めていたのでしょう。
すると迦葉尊者は「鎚沈(ついちん)」という仏具を持ち出して「カチーン」と打ってみせます。賑わいを見せていたその場も「シーン」と静まり返った様子となってしまいます。
そしてその「鎚沈」を打ってみせた迦葉仏尊者は、

お釈迦様のご説法は以上で終わりである。
という風におっしゃられるのです。
「鎚沈」を打って、お釈迦様の説法は終わりだと言うんですね。
そしてお釈迦様自身も何も話すことなく、説法の高座から下りられたという。そんな逸話が残っております。
過去七仏にも数えられる迦葉仏尊者が打たれたこの「鎚沈」。
この「鎚沈」の「鎚」の字がこの「指竿針鎚」の最後の「鎚」の部分でもあるわけですが、迦葉仏尊者がこの「鎚沈」を打った。
これを打ったことによってお釈迦様のご説法は証明されたということですが、それは一体どういう意味だったのでしょうか?
個人が納得できない、それが在るべき本当の姿
この場においてはまず、お釈迦様が説法の場である高座に上られます。
そしてその場で静かに坐禅をされた。
その様子をご覧になった迦葉仏尊者は「鎚沈」を「カチーン」と打ち、説法はもう終わったと言う。
「鎚沈」のその「カチーン」という音を聞いてお釈迦様は、説法の座から下りられた。
これが今回のざっくりとした流れですね。
「説法」というのは話す人がいて、それを聞く人がいるのが通例です。「お釈迦様」が口にした「お話」を大衆は耳で聞くというのが習わしであります。
またそれが我々が思う「説法」の在り方でありましょう。
そこで我々は納得をしたいわけですね。「仏とは〜というもので、〜しなければならない。」そのような話を聞いて納得したい。これが説法に求められているものです。
しかし「仏法の真実」というのはそのように「口で話し、耳で聞いだけで理解されるものではない」というわけですね。
もしくは「耳で聞いて理解してそれで終わり」という事ではないという事ですね。
勿論、「お釈迦様がおっしゃったことを耳で聞き、そしてそれを実践し、自分のものにしていく」という事も弟子からすれば大切な事であります。
私もぜひ聞いてみたかったと思うわけです。
しかしここで問われているのは、「仏法のギリギリの教え」というのは耳で聞いてそれで納得するという事ではないというなんことです。
お釈迦さまは仏法をお伝えになる人です。その仏法とは何か?ということです。
お釈迦様が高座に上られるという事、そこで仮に何も話す事がなくても「その事自体」が仏法の真実の現れであるというわけですね。
例えば今、目の間にある「畳」も真実の現れであります。
「銀杏の木」も真実の現れだし、「犬のウンチ」も真実の現れです。
真実の現れというのは、この世界は仏の世界だということです。真実の世界だということです。ここは昔から続いている世界でもあり、お釈迦さまと同じ世界を我々は生きているわけです。
この世界に全てがあり、全てはこの世界の話です。いつだってこの世界以外ないんですね。これまでもこれからも。
この世界が全てであるわけです。仏というのもこの世界のことで、この世界に間違いなく含まれているわけです。
ということはこの世界の「確かなこと」あるいは「事実」。これらは全て、この世界の、つまり仏の命だということです。事実が全て。事実が仏、事実がとても尊いということです。それは間違いなく仏の結果だからです。


「銀杏の木」も「犬のウンチ」も、つまらない「庭掃き掃除」も。
あるいは今回のお釈迦さまが上っていかれるお姿もその須弥壇も。全てが仏の命で、真実だということです。
上も下もなく、全ての価値も同じ。全てが上も下もない仏の命。仏以上でも以下でもないのです。
あらゆるものがそのように目の前で現成されており、その事実のみが我々には展開している。つまり我々は常に仏いっぱいの世界で生きているわけです。
なので説法においても、全てが仏の説法となるわけですね。
我々は「自分」という「自我意識」もしくは「自分のものさし」を持っており、それを振り翳し様々な物を様々に評価しております。
これが人間の「人生」であります。
そしてその「自分の物差し」で都合の良いものだけを選択していく。
しかし本当は、あらゆるものが「ただ真実として」その場に現成しております。仏以上も以下もないのです。真実以上も以下もないのです。
絶対的な真実です。絶対的な存在です。
なので、
「鎚沈」をカチーンと打つ。
ということも仏法ギリギリの教えであり、むしろこれが仏法そのものだったということです。
そこでお釈迦さまが上る。また音が鳴る。それらは紛れもなくこの世界の事実です。
この世界の事実だということは、それ以上はありません。全ての事実であり、仏の事実です。仏そのものです。100点満点の結果です。
説法では概念ももちろん大切です。今こうして皆さんにお読みいただき、こうして気づきを与えているブログ記事がまさにその概念でもあるわけですから。
しかしお釈迦様に「仏法の在り方」を説いてもらってそれを実践するだけが「仏法」ではないという事です。
「仏法のギリギリの教え」というのは、お釈迦様が説法をするために高座にのぼられ、何も話すことなくその高座から下りられる。
それこそが「仏法のギリギリの教え」であるのだ、そういうお示しであったわけです。
弟子たちの中には「なんだ、今日の説法は一体なんだったのだ?まったく納得できない。」と思う者も多くいた事でしょう。
しかしそれが本来の説法の在り方だったのです。仏の教えそのものだったのです。仏の命そのものだったのです。
毎回「お釈迦様」がされる説法を聞いて「あぁ今日のお釈迦様のお話は良い話だったな・・・。」と納得する話ではないんですね。
お釈迦様がそこに坐られ、そして何も話さずに下りてこられた。
しかし実はとても尊い「説法」だったわけです。まさに本当の仏の説法だったのです。
指竿針鎚の転機とは?
ここまで『普勧坐禅儀』の
の「指竿針鎚」に当たる部分を本記事も含め「4つ」の記事に分けて解説してきました。
そこで「指竿針鎚」となるに至った「指」、「竿」、「針」、「鎚」にまつわる、それぞれのエピソードを見てきたわけです。
- 何を聞かれても「指」一本差し出す俱底和尚。
- 「おい!」と呼ばれ咄嗟に返事をしてしまった阿難尊者。
- 満々と満たされた「洗面器」の中に「針」を落として「真実の在り方」を示した伽那提婆尊者
- お釈迦様が何も話さないうちに「鎚沈」を打ちつけた迦葉仏尊者
それでは肝心の、
とあるように、その後に続く「転機」とは一体どういうものだったのでしょうか?
これまで見てきた「指竿針鎚」のエピソード。
そのエピソードにおいてはどれも真実の「仏法」の話が示されております。
その「仏法」というのは世間でいう所の「利害」、「損得」、「効率主義」でがんじがらめになっている人にとっては無意味なものとされるだろうし、理解されることもないでしょう。
そのあたりの懸念も恐らく道元禅師にもあったことでしょう。
しかし
というのは、それでもこの「指竿針鎚」による教えを受けた者達は、人生観がガラッと変わってしまうだろう。ということなのです。
- 何を聞かれても「指」一本差し出す俱底和尚。
- 「おい!」と呼ばれ咄嗟に返事をしてしまった阿難尊者。
- 満々と満たされた「洗面器」の中に「針」を落として「真実の在り方」を示した伽那提婆尊者
- お釈迦様が何も話さないうちに「鎚沈」を打ちつけた迦葉仏尊者
このような話は常人には理解でき難いことであるが、しかしそれは「真実の世界」のことをあらわしており、そこが我々人間にとっての「安心」のしどころでもあるからです。


この「転機」に関して道元禅師が言いたいのは、



それまで「利害」、「損得」、「効率主義」で生きてきたような人であっても、この「指竿針鎚」に出会ったならこれまでの人生観をガラっと変えられてしまうだろう。
ということなんです。
これまでのように競馬で大穴を当てたり、宝くじ当たって人生がガラッと変わるのとはわけが違うんですんね。
競馬で大穴当てたり、宝くじが何億円当たったとしてもそれは所詮は人生の延長線上であるし、人が本当に安心できるようなことでもありません。
ここで言う「転機、」というのはこれまで「指竿針鎚」に出会って「効率主義」、「自分主義」であった人生観ががらっと変わることを意味していたという訳です。
仏法に出会えれば人の人生は変わる。人はそうあるべきだ。仏法に出会い、仏法に生きるべきだ。そのための助けをしたい。
道元禅師はこのように思われていたのかもしれません。
仏法に出会うことが我々の本当の「転機」である。こういったことをこの「指竿針鎚」のエピソードを通してお話になられていたわけですね。
指竿針鎚の「鎚」-まとめ-
今回は、道元禅師がしるした『普勧坐禅儀』の、
について解説してきました。
最後に本記事のポイントを振り返ってみましょう。
- 「指竿針鎚」というのは昔おられた仏祖方の逸話から来ている単語を繋ぎ合わせたもの。
- 「指竿針鎚」の「鎚」はお釈迦様と迦葉仏尊者のエピソードからきている。
- お釈迦様は高座の上られ、高座から下りられる。それこそが真実の「説法」であった。
- 真実の世界は自分の納得とは関係のない世界。
- 「指竿針鎚」に出会う事ができたなら真実の世界に巡り合える。またそこが人の本当に安心できる場所。
以上、お読みいただきありがとうございました。
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