道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は第㉑弾といたしまして、「永平寺(えいへいじ)」についてお送りいたします。
当blog「道元禅師の旅」において、最重要キーワードといっても差し支えないのが今回の「永平寺」です。
つまりこれは現在の福井にある曹洞宗寺院の名称で、同じく曹洞宗の根本道場です。
元来、僧を目指すものたちがここへ集い、禅の修行をしてまいりました。
今でも多くの修行僧たちがここで修行をしております。
道元禅師がおひらきになった「永平寺」とはどういった場所だったのかについて見ていきたいと思います。

永平寺とは

「永平寺」は現在曹洞宗の大本山とされています。
「吉祥山永平寺」といい、福井県吉田郡永平寺町にあります。
昔より「禅の修行道場」といえば「永平寺」と言われており、深淵なる山間の荘厳な雰囲気に囲まれたこの道場では、普段の日常では感じることのできない感覚を持つことができます。
禅道場第一の名の下、昔から多くの修行者がこの「永平寺」に集い、そこで修行経験を積みました。
現在も多くの修行者によって荘厳な修行生活が送られております。
この「永平寺」は毎年大晦日にNHKで放送されている『ゆく年くる年』の舞台になっていたことでも有名ですね。
永平寺の成り立ち

寛元元年(1243年)、京都にある深草の興聖寺を退いた道元禅師。
師の如浄禅師のススメもあり、世情と一定の距離をとれるような場所に根本道場を開きたいと考えておりました。
そして当時越前の地領であった「波多野義重公」のすすめで北山入越を叶え、この越前の地を新しい修行道場として選ばれます。
それから「波多野義重公」や「覚念様」によって寺堂建立が進められ、寛元2年ついにこの越前の地に「禅の修行道場」がひらかれます。
道元禅師は同年7月15日、正式にこの「修行道場」に入り、この「修行道場」を「吉祥山大仏寺」と名付けられます。
寛元3年(1245年)にはこの「大仏寺」にて初めて『正法眼蔵』、「虚空の巻」、「鉢盂の巻」の説示が行われたのと同時に、同年4月には最初の「安居修行」が始められました。
道元禅師の教えを伝える修行道場がこの地で本格的に機能していくのです。
その後寛元4年(1246年)に旧称である「大仏寺」から「永平寺」へと改称され、現在に至ります。
永平寺の由来
「永平寺」という名には由来があります。
まず中国において「後漢の明帝」が統治していた紀元25年から220年当時にインドから仏教が伝わりました。その時の「暦号」が「永平」だったこと。
そしてその時のことを思い、日本でも至る所に正しい仏法が伝わることを願って、その時の「暦号」が使われたと言われております。(※諸説あり)
この「永平」という名称は、同寺で嘉歴2年まで使われていた「梵鐘の銘」にも刻印されていたことから、のちの人間に至るまで非常に大切にされてきた「名称」だということがわかります。
因みにその「梵鐘」に刻まれていたとされる文字が以下のようなものです。
夫れ永平は仏法東漸(とうぜん)の暦号、扶桑創建の祖蹤なり
また道元禅師がしるした『永平広録』の第2巻には「天上天下当処永平」という言葉がでてきます。
これはお釈迦様の有名な「天下唯我独尊」という教えに沿って、今後道元禅師がこの「永平寺」を舞台に、正法を伝えていかんとする「覚悟」を述べたものです。
非常に強い覚悟をお持ちになっていたことが伝わります。
道元禅師は宝治元年(1247年)に一度だけ、鎌倉にいったことを除いて、生涯のほとんどをこの「永平寺」で過ごされたといわれております。
道元禅師亡きあとの永平寺
晩年、道元禅師は病に倒れます。
それまで長きに渡って「永平寺」の住職をお務めになられましたが、病状が悪化したこともあり、いよいよ後継者を探そうと思うようになるのです。
そこで当時弟子達の中で最高位にあった「懐奘禅師」を指名し、建長5年(1253年)7月14日に「懐奘禅師」が正式に「永平寺」の第二世になられました。
この年の8月28日、「波多野義重公」のすすめで上洛していた道元禅師は「高辻西洞院覚念邸」にてご入滅されます。
道元禅師亡きあとの「永平寺」では、その後をついだ「懐奘禅師」によって平穏無事な「修行生活」が粛々と行われておりました。
文永4年(1267年)には、「懐奘禅師」は病に臥されたことで「永平寺」を去り、次にその法をついでいた「徹通義介禅師」が「永平寺」の第三世に推薦されます。
しかしそこで「義介禅師」と、もう一人当時の永平寺を支えておられた「義演禅師」の間で「永平寺」の相続権を巡って論争が繰り広げられてしまうのです。
「義介禅師」は伽藍やお堂を多く建てたり、多くの儀式を取り入れるなどして、教団の発展をはかろうとます。
一方の「義演禅師」はというと、道元禅師の「只管打坐」を純粋に守ろうとしたのです。
いわばこの論争は「新旧両派」の争いでもあったんですね。
この論争は文永4年(1267年)から文保元年(1317年)まで行われるのですが、結局決着がつかず「義介派」は永平寺を出て、加賀の「大乗寺」に移ることになります。
このように道元禅師の亡きあと、「義演派」と「義介派」として、その間で分裂が起こってしまったのでした。
それでも道元禅師の宗風はきちんと守られていきます。
まず「義演派」によっては、引き続き道元禅師の教えの根本でもある「只管打坐」を粛々と守っていきます。
一方「大乗寺」に移った「義介禅師」でしたが、そこでも道元禅師の「只管打坐」は守られ、行われていきますし、またその門下からは立派な弟子たちが生まれます。
特に今日の「曹洞宗」の地方発展の礎を築いたとされる「瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師」の存在がそこにはありました。
この「瑩山禅師」は「義介禅師」のあとをうけて「大乗寺」の第二世となられたあと、次に能登に「洞谷山永光寺(ようこうじ)」と「総持寺(そうじじ)」を建立されました。
「瑩山禅師」はそれまでの論争や風習にとらわれることなく、能登の地で「曹洞宗」の民衆化に努められたのです。
「永平寺」はその後「義演禅師」のあとをついだ「寂円禅師」や「義雲禅師」によって守られておりましたが、この「瑩山派」からも「永平寺」への入山が多く行われるようになったことから「永平寺」には多くの修行僧が集まるようになり、次第に曹洞宗の根本道場として力を強めていきます。
永正4年(1507年)には、当時の天皇である「後柏原天皇」から「本朝曹洞第一道場」という勅額が与えられ、この「永平寺」は正式な「出世道場」として認められるようになったというわけです。

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