道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。
今回は「看経(かんきん)」についてそこにおける意味と、使い方についてお伝えします。
筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
看経とは?
「看経」とは、もともとは「諷経(ふぎん)」のことを指し、声をださずに経典を黙読するという意味でしたが、のちに「読経(どっきょう)」と同じ使い方をされるようになり、声を出してお経を唱えたり、諷経をする際にも使われるようになった言葉です。
この「看経」という言葉以外にも、勤行や礼拝、読経、諷経などという言葉が同じ意味で使われることがしばしばあります。
またこの「看経」は「経典を研究する」という意味でも用いられる言葉でもあります。
看経と道元禅師
道元禅師がおしるしになった書物、『正法眼蔵』の中にこの「看経」について詳しく説かれたものがあります。
それは仁治2年(1241年)に興聖寺にて、大衆に示したもので、タイトルも同じく「看経」となっております。
この「看経」の巻では、経典を低い声で読誦することの大切さや、経典を読誦する際に正しく持ったり、正しく開いたりすることの大切さについて詳しく説かれております。
また道元禅師はこの巻のなかで、無上の悟りを得るためには良き指導者(善知識)、及び経典が必要であるとお説きになっております。
ここで道元禅師が述べる良き指導者(善知識)とは、「すべてが自分と一体」である人のことをいい、それを仏祖あるいは指導者(善知識)とおっしゃるわけです。
またここで道元禅師がいう経典とは、「すべてが自分と一体である仏祖の経典」のことをさしているわけですね。
こうした中、修行者が経典に対して向き合う形には以下のような種類があると言われております。
- 念経(経典の言句について思念すること)
- 看経(経典の黙読)
- 誦経(経典を唱えること)
- 書経(経典を書写すること)
- 受経(経典の伝授)
- 持経(伝授された経典を保持すること)
そして今回の「看経」も経典に対しての一つの在り方だったというわけですね。
今ご紹介した「6つ」の経典に対する我々修行者の「在り方」。
そのいずれもが「修証そのものである」ということを道元禅師はこの『正法眼蔵』、「看経」の巻で説かれているのです。
しかし口で言うのは簡単ですが、「経典」をまなぶことはたやすいことではないんですね。
というのも「仏祖の修行」をこころざして、初めて経典に触れることができるからです。
一般の方が学ぼうとしても、形式じみたことしかわからないという捉え方なんですね。
道元禅師はさらにこの「看経」の巻の中で、六祖慧能禅師禅師が、「法達」という弟子に、
心迷えば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず。
と説いた言葉をあげられ、
心が迷っているままで「法華経」を読めば、自分の主体性はなくなり、「法華経」に支配されてしまうだろう。逆に心が悟っているならば「法華経」を自由にすることができるだろう。
とお説きになっております。
つまり「迷悟」。「悟り」や「迷い」に囚われないことが本当の経典であり、そうした経典の在り方や修行者の態度をこの「看経」の巻でお説きになられているのですね。
いかにも道元禅師らしい厳しくも温かいお言葉であるように思えます。
それ以外にもこの「看経」の巻では、経典を学ぶことの基本的な態度や作法、さらには禅院における「看経」の作法についてくわしく説き、その意義について明らかにしております。
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