お馴染みのシリーズも第⑥段目となりましたが、このシリーズでもそうですが、私はしきりに「この世界は1つだ」というお話をします。あるいは私もあなたも「仏」だというお話をします。
それは鳥の鳴き声が自分の耳を震わせるだけでなく、真冬になれば寒さに思わずブルっと震えるし、その中でバケツに手を突っ込もうものなら冷たさを通り越して、痛さに変わるからです。宇宙がそのまま私で、私がそのまま宇宙なのです。命に際限がないのです。私という限定的な命がここにはないのです。
この世界の事実が「これ」だからです。
あるいは私がこうして生きていられるのは「呼吸」ができるからであるわけだけれども、その呼吸は「自分」が寝ている間にも行われ、もとよりそこでの酸素は市外か、県外か、はたまた国外からやってきたものでもあるわけです。私という命の垣根がどこにもないわけですね。どうやってもその境界線を見つけることができないのです。
また例えば我々がよく口にする「お米」がありますが、種があって、土があって、堆肥があって、太陽があって、水があって、虫たちの働きがあって、あのような姿になります。それらに働き続けてもらわねばなりません。
はたまたそれが私の口に運ばれてくるためにはお茶碗や、お箸、炊飯器、スーパーの店員さん、その駐車場、車、燃料、そういったものまで必要になるわけです。
お米は土であって、太陽でもあって、虫でもあり、車の駐車場でもあるというわけです。車の駐車場からしても、そのお米を購入されるために作られたもので、実は「お米」だったというわけです。
全ては「全て」。
こうした事実を重視しており、同時にこの世におけるたった1つの「真実」だという風に私は思っているからです。とても大切なことですが、残念ながら気づいていない人が多い、さらに仏教の最も大切な教えであるという風にも思っているため、冒頭の「自他一如」の話についてはしきりにさせていただいているわけです。
ここでは全てが1つとして繋がっていると。ここにいるのは、ここにあるのは、その繋がりでもある「全体」、その人のみだと。そしてそれこそが「仏」だと。
私は仏とも1つであり、私はあなたで、あなたは私だと。
我々は全体として生きている。あるいはその全体によって、仏によって生かされている。これからも何があっても生きていける。何があっても仏様の手のひらの中だと。私が生きることは仏様に生かされるということ、仏様が生きるということだということ。何があっても大丈夫なのだと。
だからこうした話を熱心にさせていただいているわけです。これからもさせていただきたいのです。
今回もさせていただきたいのです。
しかしこの「自他一如」に関しては、やはり疑惑の「目」も多いです。
やはりどうしても、私とこのスマートフォンが「自他一如」だと、「同一存在」だという風には思われにくいわけです。鳥ならまだしも、こんな無機質で、最先端の人間技術を駆使し、有識者の指示のもと工場の人の手によって、機械によって開発されたものが果たして「私」なのか、この私と本当に繋がっているものなのか、そうした疑問に突き当たってしまうわけです。
もちろんそれがどんなものであっても、事実として繋がっています。間違いなく「自他一如」です。
なぜならそれがこのスマホだろうが、ゲーム機だろうが、ショベルカーだろうが、なんだろうが、こうして触れ合えるわけだからです。そこでは命を起こしあえる。
例えばこうして「壁」を殴れば痛いわけですが、それは壁によって自分の命が生まれたということです。命を起こし合える存在、壁に命を握られている。壁が自分の命を持っているというわけです。壁が自分の命の延長だということです。仮にそれを自分の意思で殴ろうと思って行ったものだったとしても、そもそもそれは「思わされた」という事実があります。それは他の生命活動だったのです。
要するに壁と私との間に「命の境界」がないわけです。境界がなく、命が重なっている。この世の全てはそのような成り立ちで、よって「自他一如」なのです。
しかしそうした考察ができる一方で、これからする話によってもそれは証明されると思うんです。
例えばそれらは全て「大自然の呼吸」をしているわけです。1秒ごとに風化をしている、年をとっている、壊れていく、失われているということなのです。その点において私も、スマホも、ゲーム機も、ショベルカーも、紛れもなくこの世界の仲間だということ。この世界の真実に掴まれているわけですね。同じ生き方をしているわけです。
また死んだ後や、壊れた後は、骨となり、あるいはボロボロの鉄屑となり、いずれまたこの大地に戻っていく。この世界に戻ってくるわけです。その点も同じです。全体に戻っていくのです。
命の保管場所が常に同じなのです。常に全体へ向かっている命なのです。全体に流れていく命、全体に保管されている命、その点においても同じだということです。
結局我々は「全体」なのです。結局は全体の「呼吸」なのです。同じように「全体として生きている」のです。
つまり我々は同じ命のあり方、同じ作りになっているということです。同じ生き方をし、同じ呼吸をし、同じ死に方をする。全く同じ動き方、あり方をしているのです。同じ運命を共にしている。
我々は常にいるところが同じなのです。常にいる場所が同じなのです。常に同じ場所を生きているのです。同じ命を生きているのです。作りが同じなのです。
これまでとてもあるとは信じられなかった私と全く同じもの。同じ存在物。クローン。実はこの世の全てがそうだったのです。この世の全てが、自分と全く同じ存在物だったのです。
例えば「山田太郎」という人間にあっては、そこに生きている胃や、腸、骨、舌などは「私」という風に捉えやすいと思いますが、長い目で見た時まさにそれと同じことが世界中で起こっているんです。スマホも壁も、ショベルカーも、ここでは「全体(山田太郎)」という1つの現象なのです。
全体の「呼吸」という現象なのです。
繋がっているどころの話ではない。
もはや同じ現象であるということ。我々は全て同じ場所で生きている、同じ「点」で生きている、同じ「座標」にいるのです。全く同じ存在物なのです。同じ「山田太郎」なのです。
従ってあなたは私で、私はスマホだということなのです。
ちなみにこのような考え方を欧米では「ワンネス(Oneness)」と言うらしいです。笑



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