皆さんは「一遍上人(いっぺんしょうにん)」をご存知でしょうか?
今回はこの「一遍上人」の「詩」を題材として、世界の真実の有り様について考えていきたいと思います。
一遍上人とは?

「時宗」を開いた「一遍上人(いっぺんしょうにん)1239-1289」という方がおります。
この「一遍上人」の本当の名前は明らかになっておりませんが、幼いころの名前は「松寿丸」であったとされております。
かの「法然聖人」の孫弟子にあたる「聖達」の元で浄土宗の勉学に励まれ、修行をされました。
踊念仏としても有名なこの「一遍上人」。
浄土宗においては何よりも「念仏」を重んじる習慣がありますが、この「念仏」を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であると教えております。
なのでこの「一遍上人」もひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることを実践されていたと言われております。
そんな一遍上人が、

となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして。
という詩を作られたんですね。
実に素晴らしい「詩」ではないでしょうか。
しかしその「詩」を聞いた一遍上人の師匠にあたる「聖達上人」が次のように言います。



とてもお前のこの詩では「真実の世界」には至ってない。しっかりと唱え直しなさい。
何故、師匠に否定されてしまったのでしょうか?
誰が「南無阿弥陀仏」の声を聞いているのか?
つまりこれは「傍観者の詩」であり、「他人ごとの詩」であると師匠の聖達はいうのです。
つまり、
というのは、「南無阿弥陀仏」をどこかできいている「誰か」がいるわけですよね。
「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏のこえばかりして。」
これではどこかでその「南無阿弥陀仏」の声を聞いている人がいる。



これではまだ「傍観者の詩」であったか・・・!!
その事にふと気が付いてですね、再度「一遍上人」が「詩」を作り直すんです。



となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
このように作り直しました。
この「詩」を作った「一遍上人」もようやく「聖達上人」から認められたという逸話が残っております。
それでは何故、
となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏のこえばかりして。
は認められず、
となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
は認められたのでしょうか?
この世界には「南無阿弥陀仏」の声を聞く者はいない
それは先ほども述べたように「傍観者」であったか、「当事者」であったかの違いです。
となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏のこえばかりして。
この「詩」だと「南無阿弥陀仏」の声を「誰か」が聞いている事になってしまいます。
しかし、
となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
こちらの「詩」をみると、そこには「南無阿弥陀仏」を聞いているのは誰もいないのですね。
これが正しい「真実の世界」であるというのです。
どういうことかというと、この世界というのはその声を聞いている「誰か」がいない世界なんですね。つまりこの世界は全てが自分自身と繋がった世界なんです。自分自身が「南無阿弥陀仏の声」であるというのです。
それをこの詩では見事にうたいあげているんですね。
ここには「傍観者」が誰一人いない。「南無阿弥陀仏」を唱える「自分」しかいないのです。
このことをもっと理解するために、今ここで起きている状況を整理してみましょう。
ここでは鳥の声が自分の耳をふるわせるわけです。つまり鳥によって自分の命が起こされる。
あるいは自分が寝ている間にもこうして体が呼吸をしてくださるから生きられるわけですが、その呼吸に必要な酸素というのはどこか遠くからやってきたもののわけです。
自分とはかけ離れた遠い場所からやってきた「私という命の源」のわけです。
つまり私という存在は「他」によってできているわけですね。
この世の全てのものはこのようにして生かし生かされの様相で、この世の全ての命は1つとして繋がっているわけです。
壁を殴れば痛い。人とぶつかってお互いに痛い思いをする。そこではお互いに命が発生してしまう。命に垣根がない。
それは要するにこの世に私という存在はどこにもないということなんですね。
世界は常に1つ、私はこの世界と1つなのです。
実際に真冬に雑巾掛けをしようと思い「バケツの中の水」に手を突っ込むと、驚くほど冷たいし、痛くなるはずです。それはまさに宇宙と自己との「間」に垣根がないからなのです。「宇宙」がそのまま「自己」であり、「自己」がそのまま「宇宙」なのです。
「天地同根万物一体」あるいはお釈迦さまの言葉を借りれば「大地有情同時成道」というわけです。
そう思うと、確かに自分が「南無阿弥陀仏」と唱えている最中に、その「南無阿弥陀仏」の声を聞いている「他の自分」がいるはずがないのです。
「何か」を「聞く」。
このためには2つ以上の媒体、あるいは「主人」が必要だということですが、常に1。常に自己っきり。常に宇宙っきりのわけです。物事が2つとしてわかれない以上、このようなことは起こり得ないわけなんですね。
自分が常に展開されている。この世界は常に自己の展開、あるいは宇宙の展開なのです。
ここでは「私」と「あなた」といったふうに二つに分かれるわけがなく、ましてや南無阿弥陀仏の声を聞いている他の自分が存在するはずがないのです。
あるいは自分以外など存在しないのであれば、自分が消滅すれば世界も消滅する。そういった世界だということです。
だってそうでしょう?
自分がいなくなったあと、自分のいない世界を果して自分がみることができますか?
あなたが幽霊になってこの世界に留まり続ける事ができるのならそれは可能かもしれない。
しかし、それはできません。
自分が消えれば世界も同時に消える。
何故なら世界と自分は一つとして溶け合っており、自分以外などどこにもないのですから。
これは言い方を変えれば「死」などないとも言えるかもしれませんね。
「真実の世界」には他人の入り込む余地がありません。「傍観者」などありえないのです。
全てが当事者。全てが自分、今、ここなんです。全てが自己の展開なのです。全てが今ここ、この自己の展開で、今ここ、この自己が自己しているというのがこの世界の動きであり、「存在」なのです。
繰り返しになりますが、
この世の全てが一つの命として溶け合っている。
自分がいなくなれば世界もなくなる。そういう命を我々は生きております。
「一遍上人」は、
となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
というこの当事者の「詩」を通して、生命の実物に出会えたわけですね。
真実の世界に出会えたわけです。
この世界には「阿弥陀仏」を唱える自分以外いないのだと。
なので道元禅師も盛んに坐禅をすることをお伝えになるわけですね。我が身をも忘れ、心をも忘れ、ただ坐れと。自己を自己しろと。
何故ならそれだけが世界にあるものだからです。これが我々が生きるということだからです。
あるいは今回の一遍上人や、他宗においても「ただ念仏を唱えよ」と教えになるわけです。
我々が生きるということがすなわちこの「坐禅」及び「念仏」だからです。
以上、お読みいただきありがとうございました。
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