安楽の法門とは?

安楽の法門

道元禅師にまつわる「言葉」のエッセイ。

今回は第⑪弾といたしまして、「安楽の法門(あんらくのほうもん)」についてをお送りいたします。

筆者のつたないつぶやきとして、楽しんでいただければ幸いです。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

安楽の法門とは?

安楽の法門とは

道元禅師は、性別問わず、年齢問わず、役職とわず、それこそあまねく人々に、「坐禅」の作法や行い方、心構えを伝えようと『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ』というものをおしるしになられました。

当ブログでも、これまでに何度も登場してまいりました。

覚えている方も中にはもしかしていらっしゃるかも知れませんが、その『普勧坐禅儀』の中に次のような一文が出て参ります。

所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。

この「安楽の法門」という言葉は道元禅師の、この『普勧坐禅儀』を出発点とし、そこから様々な場所で使われるようになった言葉です。

「坐禅」を長い時間していると、足が非常に痛くなります。

上記の記事内にも「坐禅は組んでいると足がひどく痛くなり、とても安楽などとは言えないものだ」と紹介されております。現に私も「坐禅」が苦しくて、苦しくて仕方ありません。

しかし、

所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。

とあるように、道元禅師はそんな痛くてたまらない「坐禅」が安楽だとおっしゃるんですね。なぜでしょうか?

なぜ坐禅が安楽の法門なのか?
  • 「坐禅」を組むと足が痛くなる。これは絶対的な約束
  • 足が痛くなるのは「概念」ではなく、まぎれもない「実物」。
  • そしてその「足の痛み」は誰かと比較できる痛みではなく、絶対的な痛みであるということ
  • 本来そうした誰とも比較できない生命を生きている人間。
  • つねに世界の真実にいきている人間。
  • それが「坐禅」を通して分かる。つまり世界の真実が「坐禅」。
  • だから「坐禅」は安楽の法門。

まず足を組むと痛い。これは紛れもない事象です。この世界の確かなことと言いましょうか。つまりこの世界の真実、これがこの足の痛みであり、坐禅なのです。

普段仕事にプライベート、と忙しく色々な顔をもつ我々人間ですが、誰もが足を組むことによって足が痛くなる。そういう真実の素材をいただいているわけです。

坐禅をすればその真実の素材によって、すかさず真実の命が花開く。このような因果の中にあるわけですね。

坐禅をすれば我々は例外なく、この世界の真実の命をいただくのだと。坐禅をすればたちまちにこの世界そのものになるのだと。

こういうことが「坐禅」では言えるわけなのです。

自分の命は「他」で成り立っている

今のことから「安楽の法門」と坐禅の繋がりが、なんとなく垣間見えるわけですが、ここからはよりその部分を参究してまいりましょう。

そこで前提として「この世の全ては本来皆成仏」という考え方が必要です。「みんな生まれながらにお救いの中で生きている」ということですね。

私も、今目の前に展開しているものも、全て仏なのです。

例えば、

「壁を叩くと手が痛い」のは壁とあなたが一つで繋がっているからです。

もしこれが「ひとつ」ではなく、「バラバラ」に存在しているのだとしたら、「壁を叩いても手は痛くならない」はずです。

もしくは、

食べたものを消化しているのもそうです。

この胃袋というのは「口に入れたどんな食べもの」でも分け隔てなく消化してくれます。

とくに寝ている間にも、その消化活動は続けられているんです。本当にありがたいことですね。

要するに我々の命というのは他に生かされているんです。他によって自分の命が出来上がるんです。つまり他が我々なのです。

そのようにして全てが1つとして成り立っているんですね。全てが1つにつながっているわけです。

仮に仏様というものがどこか、遠いところにあったとしても、それとも確実につながっているというわけなのです。

だから私は仏様なのです。

仮にこれが「仏様と別々の命」を生きているとしたら「ほうれん草」は消化するけど「玉ねぎ」は消化しないということにもなりかねないでしょう。

しかし実際はそんなことはない。朝起きればどんなものでもきちんと消化してくれている。

あるいは「ここからここまでが俺の酸素」というものを決めて生きているのだとしたら、人間が世界中を旅行することなど一生叶わないでしょう。

しかしそうではない。いつでもどこでも我々は酸素を吸って生きていける。

私という命に境界線はないのです。全ては仏の一つの命として溶け合っているんです。

これは俺のもの、あるいはここからここまでが俺の命だ、などという主張は、単なる「人間の概念」でしかないということなんですね。

実際は全ては仏の掌の中にあるんです。仏様と1つにつながっているのです。

冒頭の「みんな生まれながらにお救いの中で生きている」というのは、つまりそういうことなんです。

しかし、そんな事言われても大体の人は、「だからどうした!」という話だし、「みんな生まれながらにお救いの中に生きている」なんて言ったところで、「何をくだらない!」と思われることでしょう。

さきほども述べましたが、そのようなことを聞いたところで、とてもではないが「自分が本来救われている」なんて思えないはずです。

何しろ現代の人というのは生き急ぎすぎていて、心にも余裕がありません。

こうした「真実」に触れようともしません。

そして誰しもが「わたしが!」とか、「俺が!」という強い自我意識の中で生きていますから、「いつでも救いの中にいるありがたさ」を微塵も感じられないかもしれない。

しかし実際は我々は「真実」の中に、あるいは1つの命として常に存在しているんですね。

「自」と「他」という二つとしてわかれない「ひとつの仏の命」として溶け合っているんです。

あなたがいま、この記事を読んでいる間にも、現にあなたはお救いのなかにいらっしゃるんです。

先ほども言ったように寝ている間に呼吸を絶えずしてくれているのもそう、どんな食べたものを食べても消化してくれるのもそう。

ほんの些細な日常のヒトコマでも、きちんと目を向ければ、

自分の命は「他」で成り立っている

ということが分かるのです。

現にあなたがいま、「カラスの鳴き声」や「赤ん坊の泣き声」をうるさいなぁと感じたのも、「他」によって「自分の命」が成り立っている証拠なんです。

よくよくきちんと考えてみれば、我々の命というのは、自分一人で生きている訳は決してなく、自分以外に生かされているということに気付けるんですね。

唯、是れ安楽の法門なり。

仮にどんなに頭の中がぐちゃぐちゃでも、破廉恥なことを妄想していようが、一方で数行とも言える真実とは何か、仏とは何かを模索していようが、「坐禅をすると足が痛い」という事象は確かなことです。

どんなに頭がぐちゃぐちゃだろうが、頭が悪かろうが、逆にどんなに偉い人だろうが、足を組んで痛くならない人間はいません。総理大臣だろうと、大統領だろうと、関係ありません。

足を組めばたちまちに、あらゆる全てのしがらみを追い越して、足が痛くなる。そこにこの世界の真実が現成する。

足を組めばたちまちにこれ以上も以下もない世界の真実に帰っていける。これ以上も以下もない我々の正体が、真実が現状する。

坐禅を組んだ世界というのは、誰にとってもこれ以上も以下もない、全ての世界だということです。

その道が開く。だから「安楽の法門」だということです。

あるいはそれは、痛いわけですから「紛れもない実物」です。バーチャルでも「概念」でもなんでもない。ましてや他人に作られた痛みでもなく、宇宙一杯の痛みなんです。その「足」の痛みを「俺の方が痛い」、「いや俺の方が痛い」と言ったところで比較のしようがないのです。

それは「癒し」なんですね。安らぎなんです。誰とも比較しなくていい。比較できない場所。「安楽」なんです。なにしろその足の痛みは「宇宙一杯」なわけですから。

この「坐禅」では「宇宙一杯の痛み」をいただけるんです。とてもとてもありがたいこの世界の「真実」をいただいているんです。

ですから「安楽の法門。」であるというのです。足が痛くなるのは真実の命を生きている証拠です。仏様と繋がった命を生きている証拠です。

これがもし痛くならなかったら、あなたはバーチャルです。仏様ではありません。

しかしそんなことはない。みんなちゃんと仏様と繋がっている。みんなちゃんと仏様なのです。

足が痛くなることほど「ありがたい」ことはないんです。

「坐禅を組めば足が痛くなる」、そしてその「痛みは宇宙一杯である」という「真実」は決して揺るがないんですね。

その「真実」をいただけるから「坐禅」は「安楽の法門」なのです。

安楽の法門、只管打坐、身心脱落

道元禅師が「坐禅」を「安楽の法門」であるとおっしゃられるのにはこのような理由があったからなんですね。

そしてしきりに「坐禅」を普く人々におすすめになり、自らも「只管打坐」を貫いたのにはこのような理由があるからなんです。

「安楽の法門」である坐禅。これは別の言い方で「身心脱落」という風にも言い換えられます。

「坐禅」をしてぼちぼち「悟る」ではないんです。そうではなく「坐禅」こそが「真実」であり、悟りなんです。「身心脱落」なんです。

繰り返しになりますが、物事は2つとして分かれません。鳥の鳴き声が自分の耳を震わせる。それは鳥が私だからです。ここでは全てが1つとして成り立っているのです。鳥と私とは「同時」なんですね。

ここでは「修行」と「悟り」というように2つに分かれないのですから、「修行」をして「悟る」というのが本来あり得ないのです。

修行が悟りそのものなんです。坐禅が悟りそのものなんです。

その坐禅は「一つとして溶け合った世界の真実」なんです。

「身心脱落」であり、「安楽の法門」なんです。

安楽の法門

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