況んや八十年之化儀、水月の実ならず滅後二十八代之施設、鏡像の空なるが若とし仏を求め法を聞く之者、尚お仏見法見之辺に徘徊す 人を教え経を演ぶる之者 還って人執我執之坑に墜堕す 心外に仏を求むれば 仏変じて魔と成り 如上に楽を欣えば 楽化して苦と為る 浄土穢土は夢裏之去来也 覚者争んぞ慕わん 善業悪業は酔中之理乱也 醒人未だ行ぜず 憐れむ可き哉 迷を厭うに迷を似てす 泥を似て泥を洗うが如し 愚かなるかな 仏を懐き仏を求む 水に処して水を索るに似たり
お釈迦さまは八十年でお亡くなりになりました。そのお釈迦さまの布教の様子が冒頭の八十年之化儀という言葉です。
そのお釈迦さまの布教とはどういうものだったか?それは、
水月の実ならず。
だというのです。
水に映った月を水月と言いますが、水に映った月。要するにそこには月の実態がないわけです。水に月がただ映ってキラキラしているだけのわけです。我々が普段感じる喜怒哀楽。または追い求めている悟りというのも、この水面の月のように実態がありません。それは単なる概念で、手にすることができない。その水面の月を追い求めたり、惑わされたりしているようなものなのです。
それではいけないということですね。それは存在していないからです。追い求めてもそこには何もないし、振り回されるいわれもないからです。
なので水月の実ならず。そこを気をつけてくださいと、お釈迦さまがお伝えになることはこのことばかりなんですね。我々の修行もそのようになっていないか?無駄な修行になっていないか?水月の実ならず。の修行になっていないか?仏教者として、ここを考えなければなりません。
しかし残念ながら、ほとんど今ある一般的な修行というのはこのようなものになってしまっているんですね。修行をして悟りを得たい。あるいは高尚な価値観を持ち合わせたい。このような個人の願いが込められた修行ばかりになってしまっている。それを追い求めてもその先には何もないということです。そのような個人の価値観や物差しは、水月であり、実態を持たないものだからです。この世界にそもそもの個人が存在していないからですね。
しかしそもそも何かを追い求めること自体が間違っているぞということなのです。
海で例えると、波ばかりに振り回される我々ですが、そもそもこの世界に波が存在しないということですね。「海」、この人だけなのです。その海に対しては我々は潜ることができないんですね。感覚することすらできない。なぜなら対象にならないからですね。自分自身がその「海」そのものだからです。
先ほどの水月もそうですが、それを水月だと認識したり、またそれは実在しないものだと認識したりすることがそもそもできないということなのです。
というのも、この世界というのは全て同時なのです。
「仏」もこの海と同じで、対象にならない。感覚することができない。自分が仏そのものだから。仏と同時だから。
仏がこの世界のどこかにあるとします。この世界では鳥の鳴き声が自分の耳を震わせる。鳥が自分の命を起こす。鳥が自分。つまりこの世界のあらゆるものと自分とは1つなのです。よって仏とも1つなのですね。仏と私とは2つに分かれないわけです。だから対象にすることも、追い求めることも、感覚することもできないわけです。自分がその仏だからです。見ることも、認識することもできない。
生きていると「何も」対象にならないんですね。今、ここに生きている事実、それが全てだからです。それだけだからです。そこで全てが繋がっている。全てが完結している。
何かを対象にする、あるいは何かを対象にできるというのは、自分と世界とを分けたときに初めてできることです。しかしそういうことがそもそもできないわけですね。
「わける」、「対象とする」。繰り返しになりますが、それはあくまで概念のやり取りであり、それは本来存在していないからです。
そのような時は水月のように実態のないものに振り回されている瞬間だということです。つまり概念に囚われているということですね。
今、ここに生きている事実においては全てが一つになっている。今、ここでは呼吸をしているわけですが、その呼吸においても酸素あるからできるわけで、何かが聞こえるのもその存在があるから聞こえるわけです。他が自分の命を起こしている。他が自分なのです。
呼吸をしていることを概念では対象にできるが、実態においては対象にはできないというわけです。
水月の実ならず。そのような実在しないものを追い求めてはいけない。
お釈迦さまが言われているのはここだぞ、ということです。
滅後二十八代之施設、鏡像の空なるが若とし
またお釈迦さまがお亡くなりになって、二十八代目の祖師、これは達磨様のことですね。その達磨様がお伝えになられたことも「鏡像の空なるが若とし」。鏡に映った影、これだった。
人間の私生活。辛いこと、悲しいこと、楽しいこと、感情のやり取りは鏡像のようなものであるぞということですね。水月と同じく、本来存在しないもの、実態のないもの、そのようなものに振り回されているから注意しなさいと、そういうことをこの達磨様もお伝えになっていると。
この水月や鏡像、これを踏まえながら生きていくのが我々の本来目指す生き方だということです。お釈迦さまや達磨様をはじめ、過去の祖師方は皆、これを踏まえ、生きておられた。だから祖師なのであると。
朝鮮の高麗に「がんぎょう」という素晴らしいお坊さんがいました。
当時、高句麗は唐の国と閉鎖していた。鎖国をしていたんですね。しかしこの「がんぎょう」はどうしても唐の国に行って、学びたいと思った。そして国禁を破ってまで唐の国へ行こうとした。
その際昼間歩いたのでは警備に捕まってしまうので、常々夜に足を動かしていた。そして何日もかけて、もうすぐでその唐の国に辿り着こうという時の前夜、とある洞窟に入って身を潜めるんですね。翌日アプローチすれば次こそ唐の国へ渡ることができるだろうと。
ずっと歩きっぱなしだったので非常に喉が渇いていた。ちょうどその洞窟の中に水が溜まっていたんですね。薄明かりの中でその全容はわからない。しかし喉があまりにも渇いていたので、気にせず飲むわけです。なんて美味しいんだ!となるわけですね。体の隅々に水分が染みわたっていくのがわかる。今までこんなにも美味しい水は飲んだことがない!そのようにも思われたことでしょう。そして眠りにつくんですね。
夜が少しずつ明けて、洞窟内に光が差し込んでくる。しかしそこでよく目を凝らしてみると、なんとその水の中には死体がわんさか浮いていたんですね。そこは人間の遺体を安置する「塚墓」だったわけです。ウジがわいているもの、白骨化したもの、様々な遺体がその水の中には浮いていた。昨日飲んだ水というのもそのような遺体がずっと晒され続けてきた水だったわけです。
その光景を見た「がんぎょう」は、あんなにも美味しく飲んだ水を全て戻してしまったんですね。嘔吐してしまったのです。その時に「がんぎょう」は悟ったんですね。
そしてもう中国なんていく必要ないじゃないかと行って、来た道を戻っていくんですね。
「がんぎょう」はここで、水月の実ならず、これをきちんと悟ったというわけです。あんなにも美味しくいただいた水。それなのに別の光景を見ただけで嘔吐してしまった。それはただの光景の違いでしかなかった。見えなければ存在すらしなかったもの。そのまま気にせず飲み続けることができたであろうと。
そこで自分の価値観、そのようなものに振り回されているのが人間だということに気がついたわけです。自分もその一人だと気がつくわけですね。
しかしもうこの事実に気がつくことができれば、もう中国は愚か、他に真実を求めることなどしなくていい。そのように思えてきたわけですね。そしてあんなにも恋焦がれていた唐の国までもう少しだというのに、来た道をまた戻っていくわけです。
全てが水月の実ならずこと、あるいは鏡像の空なるがごとしを知った。ここでは実態だけが存在しているのだと。
お釈迦さまも達磨様も、また代々の祖師方も、我々にこのことを説くために、苦心された。そして導こうとした。
だから我々もそれを踏まえ、生きていかなければならないということですね。お釈迦さまのように、達磨様や祖師方のように。個人の価値観ではなく、仏道を歩んでくださいということです。
「水月の実ならず」、これを悟れば、他に真実を求めることをしなくていい。他に何かを求めようとしなくていい。どこでも安心して生きることができるはずだと、その場で死に切ることができるはずだと、そのように言われたいわけですね。
また、
仏を求め法を聞く之者、尚お仏見法見之辺に徘徊す
仏とは何か?仏道とは何か?そんなことを求めなくていいということです。今、ここ、この事実だけが真実だということ。今自分の肌をつねれば痛い、そこではまず、自分がこの世界に生きていることがわかります。しかしそれが事実であるならば、その事実がこの世界の真実であると。今、ここ、この自己においても、そこに事実があるならば、実態があるならば、そこにはこの世界の全てが詰まっている。今、ここ、この場所で足を組むこと、それが全てを物語っていると。全てであり、仏そのものであると。

今、ここ、この瞬間に全てが展開している。つまり仏法が展開している。それなのに他に仏法を求めようとする。仏法の近くにはきているけれども、そこからは決して仏法には辿り着けないぞと。永遠に平行線を辿ってしまうぞと。外に仏はないんですね。内側に目を向けない限り、延々と仏を見つけることはできない。その内側に目を向けるというのが「坐禅」だということです。
人を教え経を演ぶる之者 還って人執我執之坑に墜堕す
お経に何が書いてあるかを教える側の者は、仏が見えていない。まだその目が外向きになっていると。何かを教えるということ自体が外向きであるからだと。
心外に仏を求むれば 仏変じて魔と成り
今、ここ、この自己以外に仏を求めようとする、外側に仏を求めようとすること、つまり対象や、認識、すなわち概念で仏を捉えようとする、それは誤った道であると、仏へ続く道ではなく、魔へと続く道になってしまうと。それでは永遠に仏には辿り着かないぞと。
我々はよく神社やお寺に行って、参拝をします。そこでは「試験が受かるように」とか「病気が治りますように」とか「宝くじが当たりますように」と個人のお願いをかける。個人の欲望を満たそうとする。これが「仏」を外側にするということです。しかし、それは個人の欲望を満たすための道です。それが叶わなければ落ち込む。他者を攻撃したくなる、まさに魔の道です。
如上に楽を欣えば 楽化して苦と為る
また、楽を願う人は常に苦を存在させている人です。しかし楽があればそこには必ず苦が生じてしまうんですね。
ここでは絶対に花が枯れ、絶対に足を組めば痛くなる。その事実のみです。その事実は止めることはできません。その事実はもはや絶対的で、そこに人間の価値観は介入できない。事実は止まらないのです。必ず起こります。規約がないのです。流動的で形がないのです。そこには楽も苦もないわけです。事実我々はふとした時に平気で悲しみ、また平気で喜ぶことができる。楽も苦もないんですね。規約がないから、流動的だから、そのようなことが起こるわけですね。
そのような大自然と同じ命をこうして生きていて、そこには楽も苦もない。存在できない。どう頑張ってもそれはどうすることもできないのだから、あえて楽を願う必要はないということです。
仏道を生きること、それが我々の安心であるということです。生きるべき道であると。しかしそれはどこか遠くにあるものではないですね。今、ここ、この自分に親しめばいいということです。今、ここで足を組めば、そこには仏道も、この世の全ても詰まっているぞということです。

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