人はいずれ死にます。死ぬと焼かれ「骨」になります。その焼かれている途中で、血肉はなくなり、空へと帰り、宇宙へと帰っていきます。
さらに「骨」だけになって、お墓に入ってもいずれはその骨も無くなってしまいます。
要するにこの世界で永久に形をとどめ続けることのできるものは何もないということです。
この世の全てはいずれは消えて無くなってしまうのです。これを仏教的には「無常」と言います。
とても悲しいことのように思うかもしれませんが、実はそうではありません。
そこで今回はこの「無常」という事実を踏まえ、それでもなぜこの世界は「仏」のみなのか、表題にもあるとおり、死してもなぜ仏だと言えるのかということを語りたいと思います。
つまり我々はなぜ安心して生きていっていいのか、その理由について考えます。
常に付き従う存在
そりゃ、生きている間は誰もがいい思いをしたいものです。たくさんのお金に囲まれ、美女に囲まれ、美味しいものを食べ、欲しいものを買い、好きなことをし、ぐうたらして過ごしたい。
そのような願望は誰にとってもあるはずで、あるいは人生とはそれを叶えるためのものだと意気込んで生きている人は多いです。
しかしほとんどの場合そんなことは叶いません。毎日汗水垂らして働いたところで、手元に残るお金なんて高がしれていて、良い思いなど全くできないのが現状です。たった1度の人生だとしてもそれで尽きる。ただ働いて過ごすだけ、これが実情のはずです。
それでもそんな中にあっても、寝て起きれば目がシャキッとしますし、逆に疲れれば横になって寝ます。その寝ている間でも呼吸をします。
歯応えのない、食べ応えのない情けない食事を食べたとしても、それはきちんと消化され、足を組めば痛く、暑くなれば汗をかき、その際自動で体温をコントロールします。
またこちらが指示せずとも何かを見たり、聞いたりすることができ、その際我々であれば「自慢の心」や「価値観」を持ってして、考察や意見を述べたり、感動できたりもします。
仮にそのような多くの願望が叶えられなくても、我々は常にこうした大自然の働きをいただいているわけです。
生きている間は常に、そうした100の大自然の働きとともにあるわけです。
そこから我々は離れることができないわけです。
人間だけでなく、この世界における生物や物体というのは常にそうした働きとともにあるわけですね。
誰もが、どれもが、あらゆるものが、この世界にいる限り、必ずそのような働きに支配されてしまう。
その支配者こそが大自然、あるいは「仏」なのです。
我々は生きている限り、そうした支配から逃れることはできません。
こうしている間にも、常に1秒ごとに歳をとっております。
我々は生きている限り、常にこの大自然の恩恵を得られるのです。仏とともにあるのです。
生きているだけで「救い」なのです。
時に腰が痛くなったり、大病を患ったりもする。とても悲しいことです。しかしそれも大自然の働きです。それも恩恵といえば恩恵です。
戦争が起こり、そこで戦死するとする。あるいは大地震が起きて、そこで亡くなるとする。
どのような時でも同じです。
あらゆる場面においても、そこには常に大自然の働きがあって、そこから漏れることがない。常に「無常」の中に、仏の中にいる。
「諸行無常」なのです。
本当の「救い」というのは、人間からすると非常に残酷なものだったのかもしれません。
またこの「諸行無常」という響きに、どことなく侘しさが感じられるのもそうした背景があるからなのかもしれませんね。
この退屈な日々にとても救いがあるとは思えない。ミサイルが飛び交う国の中でとても救いがあるとは思えないのが実情です。
しかしあらゆる場面においても、この無常が付き従います。仏がそばにいてくれるのです。
離れたくても離れらないもの、それが仏なのです。我々には常にそうしたパートナーがいてくれるんです。
そうなると私そのものが仏だと言えるかもしれません。だから私は「仏」なのです。
骨になっても大自然の力をいただく
これは死してもそうです。
冒頭にもあったように我々は死ぬと骨になります。しかしそこでは大自然の力があるから骨になれるわけです。
仮にこの世界に何もなければ、あるいは無常がなければ、我々は骨になることができません。そもそも死ぬことができません。産まれることもできません。生きることもできないのです。
しかし事実として、骨になったとしてもいずれはなくなります。骨になったとしても大自然の力によって、いずれ無くなってしまいます。骨になっても大自然の力をいただいているわけです。
死ねるということ、死んだということ、死んでいるということ。
それらはすべて、大自然の力の中にいるということ。大自然の真っ最中というわけです。
常にこの大自然の力が寄り添ってくれるから、死ねるということ。骨になれるということ。大自然に戻れるということ。
死ねるというのは、仏がそこにあるから死ねるのです。仏のおかげで我々は死ねるのです。
そうなるとあるいは「死」というのは「仏」だということです。
まさに死神ですね。笑
冗談はさておき、このようにずーっと、仏が、大自然が付き従ってくれるんですね。死んでもともにいてくれるのです。
だから我々は死ねるのです。骨になれるのです。そこから大自然に帰り、あるいはまたそこから始められるのです。
今は、死んで終わりという捉え方が多いです。人生一度きりという考え方が多いです。葬儀をして終わり、お墓に入ったら終わりという考え方が多いです。
違うんです。実はそこで終わっていないんですね。むしろ始まりなのです。
常に始まっている。それが「無常」です。
ただこのような事実に気づいた瞬間、怠慢になったら意味がないです。
結局は死んだら終わりなのですから、我々は毎日どう生きるべきかを真剣に考えねばなりません。
コメント