「普勧坐禅儀撰述由来」とは?

この度の「禅ブーム」、「坐禅ブーム」に牽引されるように、『正法眼蔵』や、『普勧坐禅儀』を読んでみたいという方は現在多くいっらしゃると思います。

そんな中あなたは、『普勧坐禅儀撰述由来』というものをご存知でしょうか。

この『普勧坐禅儀撰述由来』というのは簡単に言えば、道元禅師が『普勧坐禅儀』をしるすにあたって、どのような心境でこの『普勧坐禅儀』をしるそうと思ったか、その経緯や葛藤をあらわしたものです。

今後、『正法眼蔵』や『普勧坐禅儀』を学びたいと思われる方は、是非本記事で紹介している『普勧坐禅儀撰述由来』の内容を先に踏まえておくことをおすすめします。

この『普勧坐禅儀撰述由来』の内容を踏まえれば今後このblogで解説していく『普勧坐禅儀』が実に読みやすくなりますよ。

それでは早速解説してまいります。

この記事を書いているのは

こんにちは「harusuke」と申します。

2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。

さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。

それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?

ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。

目次

普勧坐禅儀撰述由来を書いた経緯

そもそも『普勧坐禅儀』というものはあまねく沢山の方々に道元禅師が「坐禅」をおすすめにした書物の事ですが、『普勧坐禅儀撰述由来』というのは、「何故、その普勧坐禅儀をしるすことになったのか」その経緯をあらわした書物になるんですね。

ここではまず、道元禅師が『普勧坐禅儀撰述由来』をしるすに至った経緯について述べてみたいと思います。

以下がその『普勧坐禅儀撰述由来』の一部抜粋になりますが、この一文と共に説明していきたいと思います。

普勧坐禅儀撰述由来(書き下し文)

教外別伝の正法眼蔵、吾が朝いまだ嘗て聞くことを得ず。いわんや坐禅儀則、今に伝わることなし。予、先の嘉禄中、宋土より本国に帰りしに、参学の(坐禅儀を撰せよとの)請あるによって、やむことをえず赴いてこれを撰す。昔日、百丈禅師、連屋を建て連牀を立てて、能く少林の風を伝う。従前の葛藤(旧窠)に同じからず。学者これを知って混乱することなかれ。禅苑清規に曾て坐禅儀あり。百丈の古意に順ずといえども、少しく頤師の新条を添う。所以に、略にして多端の錯あり、広にして昧没の失あり。言外の領覧を知らざれば、何人か達せざらん。今すなわち見聞の真訣を拾い、心表の稟受に代えんのみ。

まず冒頭には、

いわんや坐禅儀則、今に伝わることなし。

という一文が出てきます。

これは「坐禅の儀則は今まで伝えられた試しがない。」という意味になります。

これは一体どういう事でしょうか。

道元禅師はこのように「坐禅の儀則は今まで伝えられた試しがない。」とおっしゃっておりますが、実際はそんなことはないんですね。

というのも、「天台小止観」を代表とする「観法」というのは以前から日本に伝えられておりましたし、『禅苑清規』という坐禅儀も既に伝えられております。

しかし道元禅師が中国から当時の日本に持って帰ってきた、「正法眼蔵の坐禅」つまり、生命の全体を行じるという坐禅はそれまで伝えられてこなかったんですね。

そしてその「正法眼蔵の坐禅に関する儀則」も当然ながら伝えられていないと、そういう訳なんです。

「坐禅」をして爽快な気持ちになったり、意識の方向付けをしていくような観法坐禅はそれまで沢山伝えられてきました。

そしてそのための「坐禅儀」というのも数多くあったんですね。

なので、

いわんや坐禅儀則、今に伝わることなし。

というのは、

そういう「坐禅儀」はこれまで沢山伝えられましたが、「正伝の坐禅儀」は今に伝わることなし。

そういう意味になるのです。

続いて、

予、先の嘉禄中、宋土より本国に帰りしに、参学の坐禅儀を撰せよとの請あるによりて、やむことをえず赴いてこれを撰す。

この一文に関してみていきます。

道元禅師は中国へ渡られ、天童山の「如浄禅師」の下で「身心脱落」をされました。

そしてその「身心脱落」を日本に持って帰ってきたんですね。

そして「正法眼蔵の坐禅を是非、坐禅儀として書いてください」、こういった要望を当時の人たちから多数寄せられたんです。

なのでこの「やむことをえず」というのは仕方なしにということです。

そうしてやむにやまれず、仕方なしに道元禅師は「嘉禄本」の「普観坐禅儀」を著すことにしたというのです。

因みに、道元禅師が中国からお戻りになって一番最初に書かれたのが「嘉禄本」の『普勧坐禅儀』です。他にもこの普勧坐禅儀には「天福本」、「流布本」、の2種類があります。

また道元禅師は中国から日本にお戻りになってすぐ、京都へ帰ったわけではないんですね。

一年くらいどこか放浪していたという記録が残されております。

その中には九州の熊本にいたという説もありますし、博多にいたという説もあります。

また紀伊の由良にもいたという説もあったりと、そのように中国から日本に戻られて、一年くらいどこか放浪されていたんですね。

なのでこの『普勧坐禅儀』をしるすことは決めたものの、この「嘉禄本」の『普勧坐禅儀』をどこで書いたか分からないというのが現状なんです。

因みに「嘉禄本」の『普勧坐禅儀』は現存しておりませんが、「天福本」の『普勧坐禅儀』が国宝として現在永平寺に所蔵されております。

「禅宗」の規則、「清規」を初めて作った百丈懐海禅師

ここで話は一旦逸れます。

昔、百丈懐海禅師(ひゃくじょうえかい)という方がおりました。

この方は、749年に中国でお生まれになって、生涯95歳まで生きた方と言われている中国、唐時代の禅僧です。

またこの方は、現在の禅僧堂の模倣とも言われる「連屋、連牀建式」の禅院を初めて設立された方でもあります。

そして、禅僧堂における規則がしるされた、「百丈清規」を定め、自給自足の体制を確立されたことでも有名なお方です。

その百丈慧海禅師という方によって初めてこの清規(しんぎ)というものが作られたんですね。

「清規」というのは僧堂の規則の事を言いますが、初めてその規則を作った方がこの百丈懐海禅師なんです。

それまで、僧堂そのものはありましたが、その僧堂に関する「規則」はなかったとされております。

当時の「律宗」の規則に従って、生活をしていたと言われているんです。

そんな中、「禅宗」の規則、「清規」を初めて作ったのがこの百丈懐海禅師だったというわけですね。

また百丈懐海禅師は現在にも受け継がれている連屋形式となる「僧堂」を作り、その僧堂に「連牀」を作りました。

これはインドから中国に仏法をお伝えになった達磨様の教えを忠実に守っていたからなんですね。

その「連牀」というのが下の写真にもあるように、修行僧が僧堂で横一列に連なる状態の事です。

僧堂における「連牀」の様子。別冊太陽 道元P16より

それまで中国における「坐禅」というのは一人でポツンポツンと行われていたと言われております。

写真のように一列に並んで坐禅じゃなくてですね、ぽつり、ぽつり、ぽつりとそれぞれ好きな場所で「坐禅」をしていたと言われているのです。

しかしこのように「僧堂」に「連牀」を作ることによって修行僧が連なって、横に一直線に並んで坐禅ができるようになったのです。

このような規則は、百丈懐海禅師の事からなんですね。

そしてこの規則は当時の中国における僧堂生活に重要な影響を及ぼします。

何故なら自分ひとりで坐ると、勝手気ままな「坐禅」をしてしまうからなんですね。

みんなで坐るという事が非常に重要な事なんです。

例えば本来、50分「坐禅」をするべきところを、「今日は疲れたから三十分にしてしまおう」とかも出来てしまう訳ですね。

一人で坐るとそのように自分の思惑が介入してしまうのですが、みんなと共に「坐禅」をすることによって、正しい坐禅を行じる事ができる訳です。

なのでこの「連牀」をしき、みんなと共に同じ単(畳)に坐るということが非常に重要なのです。

みんなと共に「坐禅」をするということで「我」を、「自分の思惑」というものを打ち破ることができるわけです。

またこの「連牀」形式の導入が、「禅宗」が非常に発展したきっかけにもなったと言われております。

そのくらい重要な事だったんですね。

この百丈懐海禅師のしたことというのは。

「我を忘れ、みなと坐る」これが今でも禅宗の秘訣でありますから。

普勧坐禅儀撰述由来における道元禅師の批判

そこで今回の話に戻しますと、この『普勧坐禅儀撰述由来』の中には、

連屋を建て、連牀を立てて能く少林の風を伝う。従前の葛藤(旧窠)に同じからず。

という一文が出てきます。

これはどういうことかと言うと、このような僧堂に連牀をしき、みんなで正しく坐る坐禅というのはこれまでの文字による仏教とは同じではないと言うのです。

「葛藤」という字は、「つた」が絡み合った状態をいいます。

がんじがらめになった様子をあらわしたのがこの、「葛藤」という言葉です。

当時の学問仏教もまさにこの「葛藤」の状態でありましたが、そんなこれまでの学問仏教とは同じではないと道元禅師は言っているのです。

さきほども言ったように道元禅師が『普勧坐禅儀』を記す以前に、「禅苑清規」というのものがすでに日本には伝えられておりました。

そしてこの「禅苑清規」は「長蘆宗賾(ちょうろそうさく)」という人が著した「清規」になります。

先ほどご説明しましたが、僧堂における規律をしめしたものを「清規(しんぎ)」と言います。

その「清規」において一番始めにしるされたのがこの百丈懐海禅師による「百丈清規」だと言われておりますが、この「百丈清規」は、しるされたのち当時の混乱の世に紛れて散逸してしまったというんですね。

つまり無くなってしまったんです。

そんな中、3、400年経ったのちに、この「百丈清規」を慕って、長蘆宗賾(ちょうろそうさく)が「禅苑清規(ぜんえんしんぎ)」を著したというわけです。

この『普勧坐禅儀撰述由来』の中にも、

禅苑清規に曾て坐禅儀あり。百丈の古意に順ずといえども、少しく頤師の新条を添う。

という一文が出てきますね。

この「賾師(さくし)」というのは、この「禅苑清規」を著した、長蘆宗賾(ちょうろそうさく)のことをさしております。

要するに長蘆宗賾(ちょうろそうさく)は、自分の思いや考えを「百丈清規」につぎ足してしまったんですね。

自分の思惑をつぎ足してしまったんです。

それを、道元禅師はこの一文をもって批判しているのです。

普勧坐禅儀を書くことを決断した一文

また、この『普勧坐禅儀撰述由来』の中には、

所以に、略にして多端の錯あり、広にして昧没の失あり

という一文が出てきます。

これは要約すると、

他方面に渡って、錯り(あやまり)がある。詳しく説くとまだはっきりしない曖昧な点がある

と道元禅師はいうんですね。

つまり長蘆宗賾(ちょうろそうさく)によって書かれた「禅苑清規」を批判しているんです。

また、

言外の領覧を知らざれば、何人か迷わざらん。

とあります。

これは、

文字に書かれただけでは不十分であるので、それを超えたところ、文字を超えたところをしっかりと押さえなければ迷ってしまう。

ということになります。

「言葉を超えたところをしっかりと理解しなかったならば、迷ってしまう」というんですね。

そして最後の、

今すなわち、見聞の真訣を拾い、心表の稟受に代えんのみ。

というところ。

中国へ修行の旅をしに行った道元禅師。

その中国で生涯の師匠である「如浄禅師」とお会いになり、「身心脱落」、つまり「真の仏法」を得る事が出来たわけです。

この、

今すなわち、見聞の真訣を拾い、心表の稟受に代えんのみ。

というのは、

中国で、経験した「真の仏法の秘訣」を拾い集めて、私が如浄より受けた仏法を伝えることに代えたい。

という意味になります。

道元禅師が中国において「如浄禅師」を始め、沢山の人から色々教わってきたことを、それを頭の中で拾い集めて、みなさんにその仏法を伝えたいという事ですね。

「稟受」というのは、受けることで、正確には両方受けるという意味です。

如浄禅師より受けた、稟受した本当の仏法を伝えることにしたいと。

この一文にこの『普勧坐禅儀撰述由来』のすべてが詰まっているといってもいいかもしれません。

最後に

以上がこの『普勧坐禅儀撰述由来』のおおまかな内容になります。

この『普勧坐禅儀撰述由来』というのは道元禅師が『普勧坐禅儀』を著すにあたっての、経緯や心境を述べたものです。

その中において様々な葛藤や思いが乗せられていたのが本記事を通してお分かりいただけたかと思います。

今後、「正法眼蔵」、「普勧坐禅儀」を読んでいくにあたって、この『普勧坐禅儀撰述由来』の内容を踏まえる事はとても大切です。

お読みいただきありがとうございました。

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