2025年– date –
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ここでは花が枯れ、腹が減る。私は仏。
ここでは花は枯れ、腹が減ります。それは絶対です。それは大自然の働きです。大自然は絶対です。 花だけでなく私の体もそうです。 それはどうすることもできません。しかし絶対ということは、それはある意味お救いです。 お救いとは「絶対に〜してくれる。... -
つまらない人生だろうと、つまらない掃き掃除だろうと
言わずもがな、ここの世界にあるもの。話はそれが全てです。一般的な考察や、何かの正体について定義したり議論するときも、この世界で起きている、この世界にあるものについてを話しているわけです。 この世界にすでに起きていること、これから起きそうな... -
「道は貧なり」。裕福が良いとは限らない。また貧乏だから良いという訳でもない。
「学道の人は、先づすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失ふ。在家学道の者、なお財宝にまとはり、居所を貧り、眷属に交はれば、直饒その志ありと云へども、障道の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云へども、なほ僧には及ば... -
法語:「水月の実ならず」
況んや八十年之化儀、水月の実ならず滅後二十八代之施設、鏡像の空なるが若とし仏を求め法を聞く之者、尚お仏見法見之辺に徘徊す 人を教え経を演ぶる之者 還って人執我執之坑に墜堕す 心外に仏を求むれば 仏変じて魔と成り 如上に楽を欣えば 楽化し... -
私が今後やっていきたいこと、あるいはやらなければいけないこと。仏法者にこれから求めるもの。
ここでは花が枯れ、いつでもどこでも肌をつねればいたいわけです。それだけなんですね。 しかしそれだけとは言っても、それがこの世界の真実のわけです。それしかないわけです。 常に世界の100の真実を受けている。それは世界と共にあるということです。事... -
自己とは?この世界の真実、それが「自己」。その自己に親しむことが我々の生きる道
道元禅師のお言葉に「仏道をならうというは、自己をならうなり」というものがあります。 簡単に説明すると、 仏道を学ぶことを、他人事として捉えるのではなく、常に自らのこととして学ぶ必要があるとのお示しです。ただし、自ら自身へのとらわれは手放す... -
我々は「人間」ではなく、なぜ「仏」なのか?
我々は仏です。人間ではありません。 今回は生物学的な話かな?哲学的な話かな?この人大丈夫かな? いつも心配をかけ、本当に懲りないやつで、すみません。笑 そこでいうと私自身、今回の話がどういったジャンルに該当するのかわかりません。 いつも意味... -
いつも100の仏をいただいている。いつも救われている。
人の世界には貧富の差があります。あるいは性格の差、あらゆる境遇の差、容姿の差、能力の差、頭脳の差。 こうした様々な差があります。 さらにそのような「人としての差」以外にも、今置かれている実状況においても差が生まれたりします。 例えば毎日の通... -
仏の命として繋がっているとは?「雑草」という名前の草花はない。
今『雑草』に関して辞書を引くと、 我々人間の望まない場所に生える植物の事 とあります。ひどいものです。 人間からすればその草は雑草か、雑草でないか。或いはそれは部屋に飾ることのできる綺麗な花か、そうじゃないか。せめて食べられるものか、それと... -
仏道とは?
「仏道」とは仏の道と書きます。 そもそも「仏」とは何か?「仏」とは我々のことです。 またそれは、 この世界の確かなことです。 例えば自分の屁は自分でこかなければいけない。肌をつねれば痛い。足を組めば痛い。こうした確実な要素が仏であり、それは...