こんにちは、harusukeです。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。
今回は、
という部分を解説していきます。
それではまず初めに前回の、
のポイントを振り返りたいと思います。
- 「祇園」とはお釈迦様の事を指す。
- お釈迦様を始め、我々人間はこの仏の体をもってして生まれながらに悟っている。
- お釈迦様の生涯を参考にはしてほしいいが、自分たちも何一つ無駄にならない一瞬一瞬を生きている。
- 我々の命というのは他との兼ね合いによって存在するものではない
- 大自然の在り方を唱えたのが「天下唯我独尊」
それでは前回のポイントをおさらいしたところで、本記事を読み進めていきたいと思います。
こんにちは「harusuke」と申します。
2012年駒澤大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内に暮らしております。
さて、我々は寝て起きると「昨晩食べたもの」がきちんと消化されています。
それではその食べたものを寝ている間に消化してくれたのは果たして「私」でしょうか?
ようこそ、真実を探求するブログ「禅の旅」です。
直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。
先人が伝えてきた坐禅を生涯の宝とする
今回はこの部分を読んで参りたいと思います。
まず前半の、
という部分。
「少林」というのは、少林寺拳法で有名な中国嵩山の「少林寺」の事を指します。
そして「心印を伝ふる」の「心印」というのは、お釈迦様から始まった「天上天下唯我独尊」という真実の教え、という意味です。
つまりその「真実の教え」が二十八代の「達磨大師」まで伝えられてきたという事です。
またこの達磨様はその「真実」を壁に向かって坐禅をすることでお伝えになりました。
その「坐禅」を九年間行ったので、ここでは「面壁九歳」と表しています。
この、
の内容に関しては以下の記事でも触れておりますので、お時間のあるかたはのぞいてみてください。
お釈迦様が王族としてお生まれになったのはよく知られるところです。
また生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」とおっしゃり、人間は生まれながらにして救われていることを述べられました。
そして仏教が始まったのです。
その後は「苦行」など紆余曲折を経験され、晩年には祇園精舎において「坐禅三昧」をされました。
或いは、こちらの「菩提達磨(ぼだいだるま)」様もインドの王族としてお生まれになった。
こちらの記事でも触れておりますが、幼いながらにその器量を般若多羅尊者から買われており、自分の亡きあとは「真実の仏法」を中国へ伝来させることを任じられます。
そのような経緯で達磨様は中国へ渡たるわけですが、中国へ上陸した際、当時権力を奮っていた「梁の武帝」と問答をされます。
そして「仏法」にはどのような功徳があるのか?と聞かれ、「無功徳」とお答えになるんですね。
その後嵩山の「少林寺」に入られて面壁(壁に向かうこと)の坐禅を九年間し続けたと言われております。
またここでいう「九年」というのは「長い期間」を指し、つまり一生その真実の仏法である「坐禅」を実践されたということです。
つまり何が言いたいのかというと、このようにお釈迦様から始まった、「天上天下唯我独尊」、或いは達磨様によって中国に伝えられた「何の利益もない坐禅」、「何の功徳もない坐禅」。
彼らが守り伝えてきて、今日我々に伝わったもの、それは「真実」なんですね。
そして先ほどのお釈迦様、達磨様、永平寺をお開きになった「道元禅師」、そして今に生きる我々が、行っている「坐禅」こそがその「真実」なんです。
先人たちが守り伝えたものは、「他との兼ね合いによる坐禅」ではなく「他との兼ね合いではない尊い命」なのです。
「坐禅」こそ「命の正体」なんです。
その「真実」である「坐禅」を生涯、続けていく。生涯の宝とする。
これが非常に大切であります。
「仏法」は無我にて候う
我々は「自分が」、「私が」、「俺が」という自我意識の赴くままに生きています。
しかしこの世に生を受けてすぐにこの「俺が」、「私が」という自我意識があった訳ではありませんよね。
徐々にこの自我意識が形成されていったわけで。
「親」、「周りの人達との兼ね合い」、「教育」、「世間」によって、そういった自我意識が徐々に植え付けられていった。
そして知らず知らずのうちにどんどんその「根」は深くなっていくんですね。
しかし「仏法」の基本は、「無我にて候う」です。
先ほども言いましたが、達磨様は「梁の武帝」との問答で、仏法とは「無功徳」であるとお話になりました。
「仏法に功徳なんてあるものか!」とおっしゃったんですね。
これはまさにその通りなんですね。
「功徳」だとか「自我」というのは人間の頭の中だけに存在するわけで、大自然には少しもこうした人間の概念は通用しないですよね?
これが「実在」の在り方であるし、「真実の世界の在り方」です。
仏法はその「大自然の在り方」、「真実の在り方」を説いているので、
「仏法は無我にて候う」
というわけなのです。
この出発点が狂うと、仏教は分からなくなってまいります。
「俺が」、「私が」という自我意識を成り立たせている要因の一つに、自分を保証してくれる周りの存在があります。
例えば同じ会社に勤めている同僚でしたり、同じ出身校で同級生とか、同じ民族であるとか、同じ宗教を信じている者というのもそうかもしれないません。
つまりこの「自分」を保証してくれる物があって初めて「自我」が成り立つわけです。
しかしその論理から言わせると、周りがいて初めて「自我」が成り立つのに、何故その周りと「自我」を区別してしまうのか?ということです。
この点が「自我意識と大自然」と理における矛盾点であり、人間が生き詰まってしまう原因です。
もし「自我」というものが実際に、本当に存在するのだとしたら、周りの保証など関係なく存在出来るはずだからです。
なのでそれは単なる人間の「概念」にすぎないということがわかるんですね。
よって仏法において「自我」は決して認められません。
我々の体は「薄皮一枚」で外界と隔てられているだけ
現代の教育がそうですが、「自分、自我」というものを確立するために「人間」が育てられます。
そしてこの「自我」を成り立たせているのは「他人」の存在なので、保証してくれる存在がないと非常に不安になります。
つまり、「自分」を成り立たせているのは「コミュニティー」だと勘違いするんですね。
例えば「会社」であったり、「学校」であったり、或いは「同じ宗教」だったり。
A君と比べてB君は「足」が速い。Aさんに比べてBさんは「国語」の成績が良い。
そういう「コミュニティ」、他との兼ね合いによって、この自分の「存在」を保証しているんです。
しかし「学校」、「会社」、「宗教」これらは全て、「人生以降の話」でしかありません。
「人生以降。」
つまり、いつの間にか構築されてしまったこの「私が」、「俺が」という「概念」が起こってから以降の話でしかないのです。
「道元禅師」のお示しになる「宗教」、もしくは「坐禅」というのはそのような人生以降の話ではありません。
ましてや個人の救い、個人もちから成るメカニズムでもありません。
「道元禅師」がおすすめになる「坐禅」は人生以前の話です。
ましてや自我の救いなどではなく、真実の教え、大自然の教えなのです。
我々が今ここで「坐禅」をしていると、「薄皮一枚」で、外界と隔てられていることがわかります。
しかしここで「薄皮一枚」で隔てられていると表現しましたが、本当は隔てられておりません。
何故なら、外気が寒くなればブルっと震えるわけですから。
仮にこれが「鉄の皮」で隔てられていたら外気の寒さも感じないのかもしれない。
「薄皮一枚」、スケスケであるから外が寒くなればブルブルと震えるし、ストーブの音もそのまま聞こえてくるわけです。
つまりは、真実の世界というものは「隔たり」が一切ない訳です。
全てが一つの「命」として溶け合っているのです。
全てが一つの「命」だから「自我」など存在するはずがないんです。
「自我」がないから外が寒くなればブルブルと震えるし、ストーブの音がそのまま聞こえてくるんです。
もしくはカラスの鳴き声や赤ん坊の泣き声も平気で聞こえてくる訳です。
この世界は一つの「命」として溶け合っているのに、なぜ「自分」と「他人」を区別してしまうのでしょうか。
「自分」と「他人」とわかれないんですね。
この世界は2つにわかれないんです。
それが真実の教えなんですね。
無功徳だからこそ尊い
さて、トンチで有名な一休さんがおります。
その「一休宗純」の歌に、
白露のおのがすがたはそのままに紅葉におけば紅の玉
というものがあります。
森の中で、「白い露」がもみじの側に下りたならば、その「白い露」が紅の玉にもなる。
或いはこれが暗闇におりたならば暗黒の玉にもなる。
「白露」には「おのがすがた」、「俺こそ」はという自我がないから、ありのままの姿でそこに同化している。という意味の歌なんですね。
しかし我々は「自我意識」で外界とどんどん隔てられて、とてもこの「白露」のようには生きていけません。
すごいですよね。
「白露」は。
人間の師匠であります。
なので仏教、及び仏法はそういう個人の救済を唱えないんですね。
そして「道元禅師」のおすすめになる「坐禅」もそのような「個人」を修行しているのではなく、
「外界」と「一如」になった「宇宙全体」の修行
をしているのです。
確かに「個人」の修行というと、非常に我々はやりがいを持つんですね。
我々の「勉強」もそうであるし、「仕事」もそうである。
みんな「個人」の修行だから非常に能率や効率をあげようと頑張れる。
「功徳があるよ!」と言われるから頑張れるんです。
しかしお釈迦様から始まり、達磨様、そして道元禅師のおすすめになる真実の仏法、「宇宙一杯」の修行、個人ではなく「全体」の修行です。
勿論人間にとって都合の良い「功徳」などあるはずがないんです。
しかし「無功徳」だからこそ、尊いんですね。
何故なら「無功徳」こそ、真実だからです。
大自然の教えだからです。
本当の命の正体だからです。
坐禅は何故、仏行なのか?
だから大自然そのものである「坐禅」をしたところで、「功徳」など得られるわけがないし、そんな人間の思惑におさまるような代物ではないんですね。
だから「坐禅」を「仏行」というわけなんです。
何故なら人間におさまらないからです。
人間の思惑に収まらないからです。
海で言えば「大波」、「小波」とありますが、そういう表面的な「波」についての修行をするのではなく、海全体を修行する。
それが仏行であり、坐禅の正体です。
その「坐禅修行」を、お釈迦様も祇園精舎において続けられ、達磨様も少林寺において面壁九年された。
そのような修行をし続け、その真実の仏法はお釈迦様にとっては摩訶迦葉に、達磨様にとって大祖慧可に伝えられ現代に繋がる訳です。
遅くなりましたが、それが今回の、
に繋がる訳です。
「古聖」、「古人」がそのように、宇宙一杯の全体の修行をしてこられたということですね。
個人の修行ではなくてですね、真実の修行をずっと続けてこられた。
「今人なんぞ弁ぜざる。」、それなのに今の人達はどうしてそれを修行しないのかということですね。
お釈迦様や達磨様がそのように「真実(坐禅)」を守り伝えられてきたのに、どうして今の人達はそれをしないのであろうかと、しなければならないじゃないかと。
そのように「道元禅師」からの我々に対する問いかけの内容なんですね。
まとめ
途中横道にそれてしまい、長々とここまで解説してきました。
後半部分の
に関しては日本語にすれば、
古人が過去にやって来た正しい行いを、何故今の我々が行わないのか。
という実に単純なものになります。
ただここで言う「正しい行い」とは何か?について深く参究しなければならず、長い解説となってしまいました。
それでは最後に今回の、
のポイントを振り返りたいと思います。
- お釈迦様から数えて「二十八代目」、達磨様まで伝えられた真実の教え。
- 真実の教えとは、世間に背を向け、他との兼ね合いを放棄した「面壁九年の坐禅。」の事。
- ここで言う「九年」というのは年数の事ではなく、長い年月の事、つまり一生涯坐禅しつづけたという事。
- その「古人」が過去にやって来た正しい行いを、何故今の我々が行わないのか。
以上が本記事のポイントとなります。
コメント