なぜ坐禅をするのか?坐禅とは?我々がやらなければいけないこととは?

なぜ坐禅か?

今回は「坐禅」の重要性、またその重要性から言える、我々が生まれてきたからには行うべきことについてお伝えしたいと思います。

結論から言うと、坐禅が自身の呼吸だから、自身の心臓を動かすことだから。生きるために必要だから坐禅を行わなければいけないということです。

少し長い文章となりますので、お時間がある時にでも読んでみてください。

あなたの今後の人生に少しでもお役立ちできるのではないかと思い、書きました。本記事を通し、ぜひ生きるということはどういうことなのか考察を深めてみてください。

目次

世界は1つ

まずこの世界のあり方についてと、そしてこの世界は「1つ」だということをおさらいしたいと思います。

例えばカラスの鳴き声が生きているとよく聞こえてきますね。夕暮れ時。あるいは朝の出勤時。

あの鳴き声が認識よりも早く自分の耳を震わせて、それから自分はカラスの鳴き声だと認識できるわけです。つまりカラスが泣いたことによって自分の耳が鳴った。それはカラスによって自分の命が生じたということでもあるわけですね。

また壁を殴ると痛いです。当然そこに壁がなければそれは痛くならないわけですが、それはそれとして、壁によって自分に痛みが生じた。自分の命が起こった。

あるいはスクランブル交差点で、予期せず人とぶつかったとします。お互いが痛い思いをしますね。経緯はどうあれその他人によって、自分に痛みが生じた。つまりその他人によって自分の命が発生したということです。

また我々は呼吸をします。その呼吸にはもちろん酸素が必要です。その酸素というのはどこからともなく発生し、こうして自分の元へやってくるわけですね。それで呼吸ができている。その発生源は市外かもしれない、県外かもしれない、あるいは別の国からやってきたのかもしれない。

しかしそんなどこからかやってきたかもわからない酸素によって我々は今呼吸ができている。生きることができている。
どこかわからないけれども、それら植物や大自然によって自分の呼吸ができている。自分の命が起こっている。

もし仮に、命に線引きができたとしましょう。俺は俺、お前はお前。カラスはカラス、壁は壁。あるいはここからここまでは俺の命、ここからここまでがお前の命、といった風に命の線引きができたとしましょう。

もしそれが本当にできたとしたら、あるいはもしそのような線引きが本当にあったとしたら、我々はカラスの鳴き声は聞こえないはずだし、壁を殴っても痛くならないはずだし、即座に呼吸もできなくなるはずだと思いませんか?

だって俺は俺、お前はお前という風に命のあり方に際限を設けるということはそれぞれの生命活動が独立するわけで、決して他の存在によって、自分の命に対して影響が生まれないからです。そこでは決してカラスの鳴き声が自分の耳を震わせるはずもないし、壁を殴っても手が痛くなるはずがないんです。

しかしそうではない。カラスの鳴き声は自分がどのような状況や心境に置かれていてもきちんと自分の耳を震わせ、こうして聞こえてきます。

いつでもどこでも、誰であっても壁を殴ると痛いです。

またいつでも、どこでも、自分が寝ている間でも呼吸をこうして平気にすることができます。

要するに命には際限がないということなんです。命には境界線はないということなんです。つまり全てがこうして重なり合っている命なんですね。1つに繋がっている命なんです。

だからこうしてカラスの鳴き声やストーブの音が自分の耳に聞こえてくる。実際に自分の耳を震わせてくる。それは命には際限がないからなんです。

俺とお前、壁は壁、カラスはカラス。そのように物事は分けることができないということなんですね。命に線引きなどできないということなんです。全ては「1つ」として生きているということなんです。

この世の全てはそのように成り立っているんですよね。

全ては1つ、全てが繋がっているのだから、AはBなんです。またAはCでもあり、Dでもある。Aは全て、全ては全てなんです。なのでどんな言い方をしてもいいんです。どんな言い方でも間違いではないのです。なぜなら全ては繋がっているから。それは「すべて」だからです。

我々はこの世界の誰とでも手を繋ぎ温もりを感じることができる。そこではBさんとだけしか手を繋げないなんてことは決してない。誰とでも手を繋ぐことができ、そこで温もりを感じることができます。誰と手を繋いでも私の命は生まれるわけです。

我々の耳には救急車のサイレン音も、ディズニーパレードの音もどっちも分け隔てなくちゃんと聞こえてくる。楽しいディズニーパレードの音楽しか聞こえないなんてことは決してない。

物事は2つに決してわかれないんです。この俺の命は全てと溶け合っているんです。そうなると壁からすればこの俺が壁なんです。カラスからすればこの俺がカラスなんです。あなたからすればこの俺があなたなんです。

全部が自分、全部が壁、全部がカラスなんです。物事は全て重なっている。1つに溶け合っている。1つとしてつながっているんです。この世は俺というたった1つだけの世界なんです。

我々は今こうしている間においても全てと繋がっており、この私自身がこの世のすべてであるわけです。私は今こうしている間にもこの世の全てと出会っているわけです。

世界は俺だけ

この世界はこの俺だけの世界です。物事は決して2つにわかれない。1つなんです。物事に境界線はなく、物事を線引きすることも、定義づけることもできません。これはカラス、これは自分と、定義づけできない世界なんです。

これまで述べてきたように、全てがつながっており、全てが俺であり、全てがカラスだからです。

ここからここまでが俺、そこから先はカラス、といった線引きはできないんです。どこまで行っても自分。どこまで行ってもカラスなんです。

そんな定義づけができない本来のこの世界において、我々はこれはカラス、これは俺、それはノート、それはチョコレートと、定義づけてしてしまっている、それが人間です。そしてそんな本来ないものを「頼り」に生きているのが我々なんです。

しかしそれもコミュニケーションを図るためです。人間同士で。

元々我々の先祖であるホモサピエンスは猛獣から自分たちの身を守るために発声をし、危険を仲間達に伝えた。これがコミュニケーションの始まりで、概念の始まりだと言われております。

それが発端となり、こうして今になっても概念の利便性や実際のやり取りの方法が受け継がれてきているわけですね。

人間は概念を所有する生き物です。そこでは物事に定義をつけたり、線引きをしたりしたほうがより理解しやすく、そのおかげで他の人間ともコミュニケーションもとりやすくなるんですね。

だからこうやって本来できないものに対して、あえて定義をつけたり、線引きをしたりしているんですね。

しかもそれが全てだと思っている。

本来そんなものはないのに、その架空の存在に支配されている。それが今の人間です。

言葉を持たない他の動物たちからすれば、そんな線引きや定義など必要ありません。あえてそんなもの作らなくたって生きていけるからです。

実際に彼らは平気で生きております。弱肉強食とはいうけれど、安心してその場で生きているんです。そしてこれからも生きていきます。我々も本来安心して生きていけるはずなんです。不安とは心のことです。概念のことです。その概念はこの世界には存在していないものです。

実際に差し出そうと思っても差し出すことはできないからです。

概念というのはこの世界には存在していないものなんです。なのである種危険なものです。またそれに頼って生きるというのも。

もちろんこうして言葉を開発し、定義を作り、コミュケーションを図れるようになったのは人間の歴史上、最も高貴な発明だったことでしょう。

今やそのおかげで動物界の頂点に君臨することができました。

しかしそれはそれ。本来の物事とは一切関係のない話。真実とは相反する話なんです。

そんな真実の世界を、今のこの世界を、鳥のように上から俯瞰してみたとき、何が見えるでしょう?

実物だけしかそこでは確認ができないはずです。例えば猿が木に登っている。魚が泳いでいる。人間が歩いている。植物が育っている。木が倒れている。

こういった実際に手で触ることのできる様子ですね。こういったものしか見えないはずです。

世界には概念などないんです。実物しか存在していないんですね。

悲しい、辛い、楽しい、こういった心を持つ我々ですが、実際にそれを差し出そうとしても差し出せません。なぜなら存在しないからです。

この世界には実物しかないんです、本当に。

厳しい言い方をすると、仏法においては心の存在を一切認めておりません。達磨様が慧可様に心を差し出せといって、そこで慧可様に真実を気づかせたことがありました。

諸法無我

心などないんです。

心というのは自我意識です。要するに概念です。そんなものはこの世界にないんですね。またそれによって、本来ないはずなのに物事に線引きをしたり、定義をつけたりするのはこの心や概念のせいなんです。

繰り返しとなりますがそんなものはありません。そのため仏法においてはこの心や、自我意識を決して認めておりません。理由は簡単、そんなものは実際にないからです。

もちろん他の生物たちと比べ、脳が発達している我々にとってこの「思量」というのは行われる頻度が高く、どうしても避けられないものです。またそれは私自らが行っているものでなく、自然と勝手に行われるものでもあります。

なのでこの「思量」もれっきとした生命の実物と言えるのです。それはチンパンジーや猿、ゴリラなどの他の猿人類においても同じことでしょう。

その際言葉を持っていない彼らからすればそれを脳の分泌のみにとどめておくことが出来ます。本来の生命の実物のみにとどめておく事が出来るのです。

しかし脳の発達とともに言葉を持ってしまった我々はそこから構築し始めてしまう。「どうすることもできない生命の実物である思量」から「人間勝手の本来存在しないはずの思想」に変えていってしまう。本来境界線のない世界、捉えようのないこの世界を、その言葉によって捉えようとしてしまう。偽りの世界を構築していってしまう。

そうなった時点でそれは本来ではありません。この世界に境界線を作り、定義を作り、不安や、苦しみ、そういった人間勝手の世界に入っていってしまうことになるわけです。そして本来救いのみの世界から逸脱してしまうわけです。

言葉さえなければそんなことにはならなかったはずです。言葉がなければそれがそもそもなんなのかわからないからです。本来の生命の実物である「思量」をまやかしの「思想」に変えることもできるはずがなかったのです。

不立文字、教外別伝

言葉や、その延長にある人間生活というのは我々人間にとっては非常に便利です。しかしそれは決して存在していないものだということ。それは人間の頭の中のみにだけ仮に存在しているものだということを忘れてはいけません。

繰り返しになりますがこの世界は実物のみなんですね。それだけが事実なのです。

仏教はその事実だけを受け止め、事実だけを重んじる。確かな実物のみを重んじます。これは見方を変えれば冷淡な教え、あるいは冷淡な集団だと言われてしまうのかもしれません。

しかしその我々が普段直面している何気ない事実こそ、計り知れないほど実に尊いものなんですね。納得なしに思量が起こる。納得なしに腹が減る。納得なしに眠い。納得なしに痛い。そのような誰においても、何においても揺るぐことのない生命の実物。その決まりごとがあるから我々は今もこうして生きていけるわけですから。

そのような絶対的な決まりごとのなかで我々は常に生きております。今日も生かされております。そしてそれがここでいう「事実」なのです。この事実のことを「仏」と言ったり「仏教」と言ったりしてもいいと思います。

我々はもっと普段のこの事実に目を向け、その事実を大切にすべきなのです。そのおかげで救われないなんてことがないのですから。

坐禅で世界はようやく呼吸でき、自分もようやく呼吸できる

世界は実物のみ。その実物のみしか存在しておりません。なのでその実物こそが実に尊い。なぜならこの世界を形成している他でもない正体だからです。実物だけでこの世界はできているからです。この世界の命そのものだからです。

それではその実物とは何か?

それが先ほども述べたように納得なしに思量が起こる。納得なしに腹が減る。納得なしに眠い。納得なしに痛いということです。

またそれが今回の「坐禅」ということなんです。

足を組む。すると痛くなる。その痛みは紛れもなく確かなことです。つまり実物ですね。

これまでに一度も坐禅をしたことのない人はぜひ一度してみてください。本当に痛いですから。それは誰かにもたらされた痛みではありません。誰かの痛みと比較してやや弱い、やや強いといった痛みではありません。紛れもない痛みです。それは宇宙いっぱいの痛みです。

また坐禅をしていると「自分」では手に負えない程の「呼吸」をひたすら繰り返します。思量もどんどん次から次に生まれます。自分が「聞け!」と思う前に「カラスや自動車の音、ストーブの音」が自動で耳に入ってきます。隣の人の「異臭」だって、自分が命じなくても自動で臭ってきます。

まさしく生命の実物ですね。むき出しのこの世界の真実を、全てが一つにつながっているというこの世の本当のあり方をそのまま捉えているのがこの坐禅なんです。

常に「自己の正体」、その「自己」と一体の「世界」。その世界の「正体」、すなわち世界の「真実」に帰っていくことができる。それが「坐禅」であるわけです。

坐禅が「真実」そのものなのです。「悟り」そのものなのです。少しでも坐れば、その真実に立ち返ることができる。その真実そのものになることができる。(痛い、聞こえる、臭い)自分が真実そのものだということに気づくことができる。

だから、

一寸坐れば一寸の仏

なんです。

ざるで水を掬おうとするのではなく、ざるを水につけるだけでいいんですね。仏や真実は常に、今ここ、目の前に展開しているのです。私そのものなんです。どこにも行かないんです。坐禅を通して、我々が帰ればいいだけなんです。簡単なことなんです。坐禅をすれば世界そのものになることができる。真実の世界に立ち返ることができる。

その真実の世界というのは先ほども述べた通り全てが繋がっております。ということはこの坐禅をするだけでこの世界の全てを包括してしまえるんです。全てと繋がることができる。全てになることができるんです。だから坐禅の意義というのは重大なものなんです。

また坐禅の意義の重要性について、別の見方もしてみたいと思います。

そもそものこの世界の基盤というのは俺だけの世界です。俺しかいない世界というのはすでにお伝えした通りです。

そんな世界で、世界を形成している唯一の生命の実物である「坐禅」を今ここで行うことは、私が確実に轟くということです。私が震えるということなんです。

また世界と私とは1つなのだから、その私が震えるということは世界が震えるということなんです。

坐禅をすることによって、世界はようやく動くことができる。心臓を震わせることができ、生きることができる。またその世界と一つの私はそこでようやく生きることができるわけですね。

この坐禅が我々の本当の呼吸とでも言えましょう。本当の命の鼓動とも言えるかもしれない。

だから坐禅をしなければいけないんですね。生きるために。坐禅が我々にとって本当に「生きる」ということなのです。

我々宗教者はこの世界を「仏」と呼びます。たった1つにつながった、この世界のことですね。

神と呼んだっていい、呼び方はなんだっていいです。そんな呼び方一つでこの真実は変わりません。

ここではあえて「仏」とさせていただきますが、この坐禅をすることで、その「仏」の世界が動き出します。

仏の世界がようやく鼓動を始め、そこから呼吸をし、またその世界と共にある自分も生きることができるのです。

坐禅は自分を、世界を、仏を救うことなんです。

だから坐禅を可能な限りでもする。少しでもすることで世界と仏と、自分は呼吸をし、救われるからです。

自分と世界が生きるため、またそのための呼吸をするために坐禅をする。

また本来仏である我々が仏という本来の世界に帰っている。仏としているべき場所にいる。我々が本来常にいなければいけない場所。それが坐禅を組んだ世界なのです。坐禅をしている姿が本来の我々のあり方とも言えるわけです。

坐禅をしなければいけない理由というのはこういうことなんです。

当時、道元禅師は人生に疑問を感じ、中国へ仏道修行の旅へ赴きました。

そこで「如浄禅師」と出会い、その如浄禅師の元で「身心脱落」をされ、いざ帰国する際は何も持たず手ぶらで日本に帰ってきました。

手ぶら。眼横鼻直。周りからは当然「なぜ?」と思われるわけですね。

しかしこれこそが真実であったわけです。そしてその真実は大自然そのものだったわけです。なぜなら大自然が「すべて」だからですね。この世界には「大自然、その人」しかいないからです。それが1つとして存在しているだけだからです。

その大自然とは手ぶらです。逆に何か持っていてはいけないんですね。飛ぶ鳥跡を濁さずです。その大自然と私は常に一体のわけです。私そのものが仏法のわけです。手ぶらの私。それでいいわけです。

手ぶらで帰ってきたこと。そこには「真実の仏法」がちゃんと込められていたんです。

真実はいつも常にここにある。手ぶらでいいということ。真実はいつも常に今ここにあり、増えもしなければ。減りもしない。いつも常にそこにある。坐禅をすることでその真実に、大自然に常に立ち返ることができる。常にそのものになることができる。

ならば今ここ、この坐禅こそがその仏法なのだと。真実であり、我々の本来生きる場所なのだと。

いま、ここで私が坐禅をすればいいわけです。そうすれば私も世界も生きることができる。坐禅をした瞬間に真実そのものに、本来の世界そのものになることができる。そして本当に生きることができ、死ぬことができる。成仏ができる。

そこが我々の本来いるべき場所ですね。本来常にいなければいけない場所なんです。常に坐禅を目指せということです。

もし我々が魚だとしたら、水の中でしか生きることができません。

同じように我々は一人一人が本来「仏」の存在のわけですから、生きる場所も同じように「仏の世界」でなければいけないわけですね。

我々の本来いるべき場所。本来常にいなければいけない場所。それが仏の世界です。

そのためにも常に我々にとって今、ここ、この坐禅を目指す。そして常に我々にとっては今、ここ、この坐禅にしかならないようにする。

だから「只管打坐」なんですね。

納得できないから大自然。個人の納得なんて通用しないから大自然。その大自然が我々の生きるこの世界だから。だから納得できないのが正解。「ただ坐る」

「坐禅」が呼吸であり、成仏であり、真実という生き物の、命のやりとりそのものです。悟りそのものなのです。

だから無駄なことを考えず坐禅だけしていればよろしい。坐禅=この世界の真実、全て。というのは決まっている約束事だからです。生きるために必ずやらなければいけないものだからです。

しかしそう言われたところで納得できないという人も多いでしょう。

そこで少し別の考え方をご提案したいのですが、この世界にはそもそも納得がありません。納得なしに腹が減る。納得なしに痛い。腹が減るから腹が減るし、痛いから痛いんです。

そういった一才納得ができない世界の上で我々は生を受け、今もこうして生きております。

この世界の何においても「納得」は用意されていません。

また納得ができないから仏の世界なんです。個人の考えに収まらないから仏の世界なんです。この世界のことを納得できちゃいけないんですね。

納得ができるのは人間が作り出したもののみなんですね。概念上の取り決めのみなんです。

先ほど概念の危うさについてと、それが真実とは相反するものだということはお伝えしました。

坐禅はそういった概念の話とは無関係の本当の話です。ただただこの世界の真実における話(足を組むとどうしようもなく、防ぎようもなく痛い)なのです。

その真実を概念で留めるのではなく、実践し、本当の意味で捉えてのみ、我々の本当の生きる意味が果たされ、全てが成仏できる。

だから坐禅を行うんです。そのためにも坐禅をしなければならないんです。納得なんてできなくても坐らなければいけないんです。

坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり

これは道元禅師のお言葉です。

我々が納得しようが、しまいが、この坐禅は真実の行であるということをおっしゃっております。

私が坐禅をすることは、私が確実に命を燃焼する(ただ、ただ、足が痛い)ということです。

確実に私が行れるということです。その私が行れるということは、その私と繋がっている大自然が行れるということです。

私が坐る。

これは個人ではなく、大自然の行なんですね。私が坐ることは大自然を修行することなのです。私が修行するということは、大自然が修行されるということなんです。

大自然が呼吸をされるということなんです。これまでに何度も述べている通り、そしてそれは世界が救われるということなんです。

そうやって世界と私とは成仏していくんですね。坐禅で世界とわたしとは成仏できるということなんです。また成仏したということは、本来の役割を全うできた、全うしたということでもあり、救われたということ、我々の生き方は正しかったということなんです。

我々が常に身をおいているこの大自然。そにおいてはもともと納得など一つもありません。納得がないから大自然なのです。納得できちゃいかんのです。

納得なしに痛い。納得なしに聞こえる。納得なしに腹が減る。それが大自然の、この世界の正体です。そしてその世界と同時である私の正体です。

この救いそのものである「呼吸」にはいちいち納得などしていません。またそのメカニズムに関しても納得など用意されていません。我々は常に納得なしに救われているのです。むしろ納得ができないから救われるんです。この救いを解明できたら、それは逆に救いではありません。納得ができるということは、それは仕組みを解明できたということで、場合によってはそこから恣意的に救いを止めることができるようにもなるということです。

一秒とも休まずに救われ続けること。救いのみ。これが本当の救いです。なので決して救いに納得はあってはいけないんですね。

納得なしに坐禅をする。すると我々は納得なしに救われる。これだけなんです。

ここまでの説明でも腑に落ちないという人もおられるでしょうが、ただただ坐ればいいのです。

坐禅は真実の、大自然の行です。そして全てが成仏できる行です。人間の「納得」で収まるものではないのです。

この章はかなり複雑な言い方になってしまいましたが、要するに坐禅を組めばこの世の全てが成仏できる。全てが叶えられる。だから坐禅をしましょうということですね。

納得なんてしなくていいんです。しようと思ってもできないのですから。

感謝すること

話がかなりややこしくなっておりまして、すみません。

ここでは少し人間じみた話もしてみましょう。

どうしたって我々には概念が付きまといます。この概念に支配され死んでいく、これが現実です。

しかしここまで述べてきたような、本当の世界のあり方に気づくことができれば、我々はそんなつまらない生き方をせずにすみます。

安心していき、安心して死ぬことができます。全てが1つにつながった命。

そこでは生も死もないのですから。そもそもこの世界に私などなく、私とはこの世界そのものだからです。

私とは全てだからです。私が死んだとしても、世界という私が生きていきいます。要するに死ねないのです。

生もなければ死もない。これが真実であり、それは少し残酷な考え方かもしれません。

世界が死ぬ時、ようやく我々も死ぬことができる。

そんな真実もさることながら、我々はせっかくこうして概念遊びができる環境にあるのだから、思う存分この世界を楽しめばいいと思います。

この概念の正しい使い方とは何か?を考えた時、この世界に感謝すること、こうして今生きさせてもらっていることにただ感謝をし、手を合わせること、これだと思うんです。

これが最もこの概念と正しく向き合えている瞬間、そんな気がするんですね。この概念は好き勝手人間模様をやるためにあるわけではない、この世界に感謝をするためにあるものだと思うんです。

だって、我々はこうして仏さまと一緒の命をいただいていて、こうして仏様と繋がった世界に身を置いているからです。そしてそのことにいつでも「気付く」ことができるからです。

またその世界ではどこにいようと、誰であろうと足を組めば痛く、カラスの鳴き声が聞こえてくる。そういった真実のみの世界に身を置かせてもらえているからです。

そしてそれは誰であろうと絶対安心の世界に生きているということでもあるからです。誰であろうと救いのみの世界に生きているということでもあるからです。

どっちにどう行こうが、真実のみ。どこにいてもカラスの鳴き声が聞こえ、壁を殴れば痛い。こんなにありがたいことはないんですね。

公案現成

この世界では誰も嘘をつきません。常にどこでもいつでも真実が展開し、それがこれからもずっと続いていく。嘘がない。真実むき出し。どこを切り取っても真実そのもの。

だから今、ここは絶対安心なんです。今、ここが本当に救われている場所ということなんです。全てということなんです。いつでも、誰でも、どこでも、今後も誰もがずっと救われているということなんです。

そんな世界に我々は今こうして実際に身をいている。漏れなく誰もがです。どこにいようと。

さらにそこで概念といったものも持たせてもらっている。

もう感謝するしかないかなと、おかげさまでと。

日々感謝しながら生きるしかないと思うんです。他の動物はこの感謝ができません。人間だけができるのがこの感謝です。

だから我々の個人的な役割で言えば、一人一人が「感謝をする」ことだと思うのです。

誰がどう転んでも真実のみなのだから。救いのみなのだから。誰もが感謝すべきなんです。

より具体的な方法でいうと、例えばそんな安心の世界に対し、また感謝のみの人生に対し、それを概念でもって文章を紡ぐことなのかもしれません。

文章を書くことなのかもしれません。この仏の、救いの世界をその文章で語ることなのかもしれません。これが概念の最もな使い方なのかもしれません。概念を持った我々に許された行為なのかもしれません。

坐禅と文章(概念)、仏教と文章(概念)、人間と文章(概念)とは、このように親和性が高い関係性で、もしかしたら概念とはこのために用意されたものなのかもしれませんね。

概念を持った我々がやるべきこと、それはこの救いのみの世界に対し、感謝の文章を紡ぐことです。もしくは直接語ることです。

あなたの立場でいい。あなたが今いる場所からでいい。なんでもいい。感謝してみてください。本当になんでもいいのです。その際のシチュエーションは。

なぜならこの世界のどこを切り取っても真実のみだからです。どこを切り取ってもそれは全てと、仏と繋がっているからです。

さて、我々は坐禅をしなければいけないというのは前述の通りです。

また我々は書かなければいけないわけですね。そのためにもある程度文章力を磨かなければいけません。

やることができましたね。

この世界に生まれ、正しく生きることとは、お金を稼ぐことなんかじゃないんですね。

あなたもぜひ坐禅をしてください。真実にいつも立ち返る。そしてそこで本当の呼吸をし、世界を救う、自分を救う、これが本来の我々の仕事です。職業です。我々は生まれたからには成仏しなければなりません。そのために坐禅を行わなければならないのです。

みなさんこの坐禅を仕事にしたらよろしい。あるいはみなこの坐禅をするためにある程度のお金を稼ぐために今の仕事をしていると思えばいい。他の一般的な職業なんていらないです。他の夢や目的もいらないです。安心して生きていってください。

そしてできれば日々この世界のことを文章にしたり、誰かに語ってみてください。

この世界の、この仏の話をするんです。あなたに今日起きた出来事の話をするんです。

それこそが我々人間の最も有意義な生き方、幸せな生き方なのだと進言します。

この世界にはこっちがいいもこっちが悪いもありません。こっちがきれい、こっちが汚いもありません。その比較は存在しない人間の概念によるものです。真実とは関係ありません。

この世界はすべてが真実です。そこ、ここが真実です。全てが仏のみです。私自身もあなた自身もその仏そのものなのです。あなたは私なのです。

生まれてきた理由、生きる目的

最後となります。

世界は、仏は、これまでもたった1つとしてあり続け、これからもたった1つとしてあり続ける。

我々はその仏の一部で、この体はその仏から借りているに過ぎません。私は仏の一部なんです。

命に区切りはなく、ただ仏が存在しているのみなんです。

存在というと、語弊があるかもしれませんね。存在というのは「無」からみたときに見える景色だからです。一方の「無」に関してもそうだからです。この世界はそのようなあり方ではない。仏のみなんです。仏っぱなしです。存在も無もない。生も死もない。生きっぱなし、死にっぱなしです。仏が死ねば世界も死に、私が死ねば世界も死ぬのです。

死ぬこともなければ、生まれることもない。私やあなた、世界のすべてはそんな仏と常にともにあります。

そんな私はどこにいようと何をしていようと、どんな境遇におかれようと真実の世界に身を置いている。真実のみの世界に身を置いている。なのでどこを切り取ってもいい。どこで生きてもいい。安心して生き、安心して死ねる。救われないことがない。

長々と語ってきましたが、本当にその通りなんですね。

しかしできることなら、そのことに加え、我々は周りの人間や後の人間に対しこのことを継承していかなければならないと思うんです。

親でも自分の子供でもいい。また親も子もなければ、他人(そんなものいないが)でもいい。その身近な人たちに継承していくべきだと思うんです。

本記事で記してきた、この世界のあり方を、我々の生きていく目的を、そして坐禅とは何かを継承するべきなんです。

なぜならそれに気づくことさえできれば、我々人間はもっと楽に生きることができ、目的を持って生きていくことができるからです。

やはり我々は今後も概念と付き合っていくほかありません。残念ながら。

そんな概念に縛られている我々は、時に本当に苦しくなってしまうこともあるでしょう。

そんな時にこのことに気づきさえすれば少しでも楽になれると思うのです。そしてそういった人が増えればいいと思うのです。

本記事でも再三お伝えしておりますが、この世界に概念は存在しません。

もちろん概念は素晴らしいです。何かを美しく思ったり、尊ぶことができる。なのでその概念巡りの人生においてもそこで坐禅に行き着くのであればいい。仮に概念に支配されようが、坐禅を行えばそれは真実ですから。仮に一瞬でも自分を救い、他を救い、仏を救うことにつながりますから。

しかしそうではない、この世界の真実に気づくこともなければ、坐禅にすら出会わずに死んでいく人がほとんどです。

それは自分を殺すことだけでなく、仏を殺すことにも繋がります。(その理由は本記事でも述べている通りです。)

そうならないためにもあなたが何よりも坐禅を行わなければならないのはもちろん、このことを周りの人間に伝えなければならない。

そしてこの世界の真実に気づき、坐禅を行ってもらう。

誰もが一人一人、仏の一員として、この仏という世界を支えていくのです。自分を、仏を救っていくのです。そのために生まれてきたのです。またそのためにも誰もが仏法者として、坐禅を実践し、坐禅を布教していくのです。我々は「仏の子」です。これが本当の我々の仕事です。

道元禅師は幼い頃「人はなぜ生まれながらに皆仏であるのにも関わらず、修行をしなければいけないのか?」という疑問を持たれました。

我々は常に真実の世界にいて、常に皆救われている。確かにそうです。そしてこのことに気付き、あとは感謝していればいい。確かにそうです。

しかし我々はその真実に生かされ、感謝するだけでなく、周りにこの真実を伝えなければなりません。

そして坐禅を行わなければなりません。

この仏というたった1つの世界を救うためです。そしてほかでもない私を救うためです。

そして最終的にはその「目的」すらも捨てて坐る。先ほども簡単にこのことに関して言いましたが、無駄なことを考えずにただ坐るんです。

残念ながらこの「救う」というのも要するに人間の狙いです。救われたいというのも人間の概念なのです。そのような概念はこの世界にはありません。そのような目的はこの世界には通用しません。存在しない「自我」なのです。

大自然にはもともと納得がありません。納得がないから大自然なのです。そんな大自然そのもの、真実そのものがこの坐禅だったはずです。

そんな「真実そのものの坐禅」に、このような人間的な目的を持ち込んでしまったら、それこそ仏を殺すことになります。全ての目的である成仏ができません。

なのでそうした狙いすらも捨て去って、納得なしにただ坐る。納得なしにただ生きる。それが本当にこの大自然を「生きる」ということです。この線引きのない全てが1つに繋がった世界を救い、私が本当に「生き切る」ということです。自分を成し遂げ、成仏するということなのです。

そしてその時初めて自分が本当に救われ、本当に「仏」を救うことになるのです。

大丈夫。気づこうが気づかまいが、納得しようが、しまいが、我々はただただ仏に繋がれて生きており、その仏に生かされているのです。誰もがこれからもずっと仏として生きていくのです。

世界と私とは1つ。その世界は真実のみで、すなわち私も真実。

P.S

私は今木々に囲まれ、林と風の音を聞いています。またここでは塔婆が風に揺られカタカタとなっているのが聞こえます。カラスの鳴き声が聞こえます。

全てが1つに繋がっているのがわかり、私も世界も同時であることがわかります。

世界によって私は生かされ、私によって世界は生かされる。

我々は常に、そして皆同時に救われているのです。ここは仏のみの世界です。

迷ったら目の前の自然に目を向けてみましょう。コンクリートでも、何でもいい。それはあなたです。そして仏です。

大自然を師匠に。鳥を師匠に。猿を壁を、花を師匠に。それは何も言わずに真実を語りかけてくれます。

その姿に学ぶのです。

そしてその大自然と、今目の前にある物事と、これから出会うであろう物事と、仲良く楽しみながら生きていきましょう。

彼らは何も持っていません。肩書きも財産も何も持っていないのです。我々も同じです。そうなるべきです。何も持たなくていい。救われないことがないのだから、気持ちを楽に今を楽しめばいい。

仏教とは大自然の、真実のことを伝えるもので、みんなと共に楽しみながら、手を取り合いながら生きていく。これが仏教の最も大切な教えだからです。

常に我々は絶対救いの中にいます。そこから決して漏れることはない。

だから概念に支配されていたっていいんです。それは言い方を変えれば人間らしいということです。それに概念だとか真実とか、そんな境界線はそもそもこの世界にはないんですから。どこまでも概念で、どこまでも真実なんです。言い方の違いなんです。概念も真実も。良いも悪いも。

だから今回述べてきたこと、これをどうか鵜呑みにせずにあなたらしく生きていってください。

その時に感じること、人とのつながり、人の概念を大切にして生きていってください。

真実に気づかないでいいんです。それは単なる「気づき」なのですから。

こんな記事を書いてきて、こんなことを言うのもなんですが、むしろこんなことに気づいてはいけないのかも知れませんね。

真実に気づいた時、あるいは真実に生きようとした時、それはたった1つしかないこの世界を「真実」というもう一つの物事に限定しようとしているということです。1つを2つに分けようとしているということです。本来限定できない、あるいは定義できない、境界線をつけられないものに対し、それをしてしまうということです。

それは本来ではありません。仏から離れてしまうということです。つまりそれは仏を殺すことにつながるからです。真実に生きようとしたり、仏に生きようとしたりすることは逆に仏を殺すということなんですね。だから真実に気づいてはいけないんです。そんなことには目もくれず、迷いながら生きてかなくちゃいけないんです。

まさに禅問答ですね。どうすればいいんでしょう。

だけどここの駆け引きが本当に楽しいところなんですよね。そこの駆け引きがいわゆる「禅の境地」なのかもしれません。

それに何度も言いますがそれは単なる認識です。真実とは?禅とは?仏とは?本当の生き方は?これらは全て概念です。概念遊びです。禅などありません。禅宗などありません。宗教などありません。

それでも今、ここ、ここだけは絶対的な真実です。ここだけは救いのみです。ここで何も考えず坐禅をすればいい。毎日少しでも坐禅をしてそこで痛みを感じればいい。そしてただただ今日も明日も、なんだかよくわからないけれども生きていけばいいんです。

本記事でお伝えしたきて、一番に言いたかったこと、それは常に我々は絶対救いの中にいるということ。そこから漏れることは決してないということです。

今こうして何かが聞こえたり、呼吸ができているということは、紛れもなく絶対的に真実を生きている、救われているということなんです。それに気づくか気づかないか、その違いがあるわけですが、仮に気づかなくてもどうしようもなく絶対的に救われてしまうんですね。全ては仏様として繋がっており、その仏様の手のひらの中にいるわけなんです。

なので安心していいんです。安心して好きに生きていったらいいんです。

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